葛 山 氏 の 墓 所
静岡県裾野市葛山
 葛山氏の墓所は愛鷹山の東麓、裾野市葛山地区の仙年寺境内にあります。葛山氏は藤原北家伊周流 藤原(大森)惟康の次男 惟兼が葛山に住して葛山氏を称したことを初源とするようです。葛山氏の史料上の初見は『吾妻鑑』に記された葛山太郎、葛山次郎で、葛山氏は源頼朝の旗挙げに参加し、後に鎌倉御家人として駿河東部に勢力を拡大したものと推測されます。また室町期、葛山氏は足利将軍家の直臣 奉行衆をつとめ、駿河国守護職 今川氏から半独立した勢力として認知されていました。長禄2(1458)年、将軍 義政が異母兄の左馬頭政知(堀越公方)を関東に下向させると、葛山氏は堀越公方の指揮下に組み込まれます。明応2(1493)年、興国寺城主 伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)堀越公方家内の内訌に乗じて堀越公方家を滅ぼして伊豆国を制圧します。この際、葛山氏は堀越公方の影響下にありながら行動をせず、後に早雲が相模侵攻を本格化させると これに加担しています。この頃から葛山氏は今川領内の国衆として今川氏から重用されるとともに小田原北条氏に近侍した勢力として認識され、葛山維貞は早雲の三子 中務少輔氏広を養子としています。(氏広については早雲の次子 氏時の子とも、早雲の継室 葛山氏の娘とも) 文明11(1479)年、京の清水寺再建のための『勧進帳』には「駿河国葛山氏広」の名が記されており、氏広が葛山氏に入嗣した時期は文明年間(1469-86年)初期頃と思われます。そして氏広のあとは葛山貞氏の子 備中守氏元が継ぎます。氏元は当初、今川氏に帰属していましたが、永禄3(1560)年 今川義元が上洛途上の尾張国桶狭間で織田信長に討たれると(「桶狭間の戦」)、北条、武田を頼るようになります。そして永禄11(1568)年、武田信玄の「駿河侵攻」が本格化すると、氏元は武田方に内応して今川・北条勢と対峙しました。しかし氏元は北条へ内通したとの猜疑をかけられ、天正元(1573)年頃 信濃国諏訪で処刑されたと伝えられます。なお葛山家の家督は信玄の六子 信貞が氏元の娘を娶り継ぎましたが、天正10(1582)年 織田信長の「甲斐侵攻」により武田氏が滅亡した際、甲斐国善光寺で自害したと伝えられます。(場所はココです)
葛山氏の墓所
玉垣内部には大きな五輪塔とその左右に葛山氏の墓とされる五輪塔と宝篋印塔がそれぞれ八基ずつ建てられています。墓石はもともと他の場所にあったものを移築されたものと思われ、玉垣と門扉は江戸末期のものとされます。
葛山氏の墓所
現在、年代の確認できる墓碑は康応元(1389)年と明徳三(1392)年の二基のみ。また門扉には武田の家紋「武田菱」が記されています。
葛山氏の墓所
仙年寺 
正式名称は「日當山 常光院 仙年寺」.。宗派は浄土宗、御本尊は阿弥陀如来。創建は延暦年間(782-806年)、真言宗寺院として愛鷹山山中に開山されたと伝えられます。文明11(1479)年、葛山氏の庇護のもと文蓮社隆誉珠阿光冏により現在地に移築され、浄土宗に改宗。