平時忠は平安末期の武家政治家・官僚です。時忠は桓武平氏高棟の流れをくむ平兵部権大輔時信の嫡子として生まれ、同母姉に平清盛の正室 時子が、異母妹には後白河天皇の女御になった憲仁親王の母 滋子がいます。「平治の乱」(平治元 1160年)以降、朝廷内での平清盛の発言力が高まり平家に権力が集中すると時忠もまた昇進をかさね、治承3(1179)年には正二位権中納言に、寿永2(1183)年には権大納言に登りつめました。このため時忠は平家の全盛をさして「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」との発言をしたと伝えられます。しかし寿永2(1183)年、平家は木曽義仲に追われるように「都落ち」し、時忠もまたこれに同道しました。そして寿永4(1185)年3月、「壇ノ浦」で平家が滅亡すると、時忠は源氏の捕虜となりました。京に護送された時忠は「三種の神器」のうち「神鏡」を守ったことで減刑を嘆願し、また源義経の庇護を得ようと義経に娘の蕨姫を嫁がせることを画策しました。同年5月、時忠の能登への配流が決まり、9月 時忠は能登へ護送されました。そして時忠は文治5(1189)年2月24日、配流先の能登国大谷則貞で生涯を終えたとされます。時忠は能登で側室を娶ると二男一女をもうけ、嫡子の時定の家系が則貞家を称して墓所を護持し、次男の時国の家系は時国家を称して奥能登の豪農として栄えました。時忠の墓碑は墓所内でもっとも高い五輪塔と伝えられ、発掘調査から時忠一族の墓所は室町後期に整備されたものと推測されています。石川県の史跡に指定。(場所はココです) |