甲 山 城
広島県庄原市山内町・本郷町
立地・構造
 甲山城は西城川の南岸、庄原盆地北西隅の独立丘陵(標高381m 比高130m)に築かれた山城で、山頂ピークを中心に全山を要塞化した館城です。山頂ピークに構築された本城域は主郭ー二の郭ー三の郭からなり、主郭の規模は東西10−15m×南北30mほど、郭の中央に櫓台を築き、内部は南北の二分割されています。主郭の周囲には西ー北側下に二の郭が、東ー南側下に
甲山城 概念図
の郭が7−8mの段差で配置され、主郭西側の坂虎口で二の郭から繋がるように設定されています。大手導線は南西側中腹の円通寺からのルートが想定され、導線は途中で竪堀で遮断される他、上部の郭から横矢がかかるように設定され導線は厳重に防御されています。なお円通寺境内の西側縁に高さ3−4mの巨大な土塁が構築されていることから郭の一部(日常居館か?)と想定されます。本城域から北東方向に延びた稜線には東郭が構築され、規模は東西80m×南北30mほど。西側の本城域とは堀底に土橋を残した堀切で遮断され、さらに東側は10m切り落とした堀切で処理されています。さらにその先にも2条の堀切が敷設され、三重堀で東側尾根筋を遮断しています。また本城域の西側下・南西側下にも導線を監視する郭が設けられている他、本城域から派生した支尾根には全山で約200の郭が構築され、比較的 比高差が低い城のウイークポイントを補っています。

 甲山城は元亨年間(1321−24年)頃、備後国地毘(じび)荘」の地頭職 山内通資(「甲山殿」)により築かれたと伝えられます。山内氏は藤原秀郷あるいは藤原師尹を祖とし、平安末期 相模国鎌倉郡山内を本拠としていたことから山内首藤氏を称しました。保元元(1156)年の「保元の乱」、平治元(1160)年の「平治の乱」で山内俊通・俊綱父子は源義朝に加担しましたが「平治の乱」で討死にし、その後 山内家の家督を継いだ刑部丞経俊は平氏に誼を通じて、治承4(1180)年の源頼朝の旗揚げには参陣しませんでした。このため戦後、経俊は所領を没収されそうになりましたが許され、その後は頼朝に従い「奥州藤原討伐」で軍功をあげて、伊勢・伊賀国の守護職、備後国「地毘荘」の地頭職に任ぜられました。鎌倉末期、北条得宗家の専制が強化され鎌倉御家人に対する圧迫が強まると、正和5(1316)年 山内通資は一族郎党を引き連れて備後国「地毘荘」に下向し、蔀山城を拠点としました。さらに通資は元亨年間(1321−24年)、「地毘荘」南部の生産力が大きく交通の要衝 本郷に新たに甲山城を築き、弟の通俊を蔀山城に残して甲山城に移りました。(多賀山内氏) 通資の嫡子 刑部丞通時は南北朝期、足利尊氏方として軍功をあげましたが、通時の子 肥前守通継は「観応の擾乱」(観応元 正平5 1350年)では足利直義方に加担し、庶子家・一族間の対立を調停して同一行動をとる一揆を結んでいます。そして明徳3(1392)年の「南北朝合一」後、山内氏は備後国守護職に補任された山名氏の支配下に置かれ所領を安堵されます。応仁元(1467)年に勃発した「応仁の乱」で山内大和守豊成は西軍に加担して軍功をあげ、周辺の地侍を被官化して備後の有力国人に成長しました。そして豊成の跡を継いだ左衛門尉直通は永正4(1507)年、大内義興が足利義稙を奉じて上洛した際、この軍中に参陣しています。享禄3(1530)年、塩冶興久が父の尼子経久(月山富田城主)に叛旗を翻した際、直通は妹婿の興久方に加担し、出雲を追われた興久を甲山城に庇護しましたが、乱は興久の敗北で終結し 乱後、山内氏は尼子氏からの圧迫を受けることとなります。そして天文5(1536)年、尼子詮久は甲山城を占拠して直通を隠居させ、直通の外孫で尼子氏に近い多賀山伯耆守通続の子 左衛門尉隆通に山内惣領家を相続させ、山内氏を尼子の支配下に組み込みました。このため隆通は天文9(1540)年、尼子晴久の郡山城攻め」に尼子方として参陣しました。同12(1543)年、大内義隆の月山富田城攻め」は大内勢の惨敗で終結し、この際 隆通は敗走する毛利元就を甲山城に迎え入れて慰労し、郡山城まで警護して見送ったとされます。同20(1551)年、陶隆房は大内義隆を自害に追い込むと、大内支配下にあった安芸・備後の国衆の取りまとめを毛利元就に依頼します。そして元就は安芸・備後の大内義隆を支持する国人を攻撃するとともに、娘婿で山内氏と姻戚関係にあった五龍城主 宍戸隆家を甲山城に送り、毛利氏と山内氏の盟約を結びました。毛利氏の幕下に入った山内氏は隆通の跡を刑部少輔元通ー九郎兵衛尉広通が継承し毛利軍の軍役を担いました。慶長5(1600)年、広通は「関ヶ原」に出陣しましたが、(いくさ)は西軍の敗北で終結し、戦後 広通は毛利輝元に同道して萩に移りました。そして甲山城はこの際、廃城になったものと推測されます。
歴史・沿革
甲山城 二の郭東側の堀
メモ
備後の国人 山内首藤氏の館城
形態
山城
別名
 兜山城・冑山城・嶋山城
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台・虎口・堀・井戸祉
場所
場所はココです
駐車場
円通寺の駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年3月19日
甲山城は庄原盆地の北西端、本郷地区背後の独立丘陵に築かれた山城です。(写真左上) 遠目にはそれほど要害性は感じられませんが、ピークの主郭を中心に全山要塞化されています。城へは幹線道路沿いにある「円通寺」への案内杭に沿って進み(写真右上)、じきに円通寺にたどり着きます。(写真左) でっ、円通寺境内の西側縁に削り残したと思われる高さ3−4mの土塁?が残存し(写真左下)、城へは円通寺の北側から登山道が整備されています。(写真右下) 円通寺の正式名称は「慈高山 圓通寺」。宗派は臨済宗妙心寺派、御本尊は千手観音菩薩。
円通寺からの登山道はじきに堀底道になり(写真左上)、両側面には稜線に沿って竪堀が穿たれています。(写真右上) でっ、堀底道を登りきると東西2段に削平された平場にでます。(写真右) 規模は東西30m×南北20mほど、段差部分に虎口がクッキリ残っていて、大手筋を監視した郭なのでしょう。さらに導線は南西側の中腹から南東側の中腹に敷設され、途中 導線は竪堀で狭められ(写真左下)、また西郭・南郭間の堀底(木戸?)を通るように設定されています。(写真右下)
三の郭(写真左上) 主郭の南ー東側をカバーし、規模は東西40m×南北30mほど。内部に井戸祉と思われる窪地があります。(写真右上)
二の郭(写真左) 主郭の西ー北側をカバーした郭で、規模は東西40m×南北30mほど。三の郭とは1mの段差で画され、西側斜面に敷設された坂虎口で繋がっています。(写真左下)
主郭(写真右下) 規模は東西10−15m×南北30mほど、郭の中央に櫓台と思われる土壇が築かれ、内部を二分割しています。
本城域から北東側に延びた稜線は巨大な堀で遮断されています。(写真左上) 堀は二の郭から10m以上切り落としたものですが、中央に土橋が敷設されています。
東郭(写真右上)
規模は東西80m×南北30mほど。西側は前述の堀で本城域と遮断され、東側は10m切り落として堀切で処理され(写真右下)、さらに先に2条の堀が敷設され三重堀になっています。
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