大 富 山 城
広島県庄原市(旧西城町)西城町西城・大富山
立地・構造
 大富山城は西城盆地の南端、西城川右岸に聳える大富山(標高511m 比高180m)に築かれた山城で、四周を急峻な断崖に護られ、南西側の丘陵鞍部を堀で遮断して城域を区画しています。城縄張りはピークの主郭を中心に四周に3−4段の段郭群を構築したシンプルな構造ですが、周りが急斜面になっているため、これでも充分な防御力があったと思われます。この段郭群のほかにも中腹部に郭群が普請さ
大富山城 概念図
れていたようですが、未確認。主郭の規模は東西70m×南北30−40mほど、四周には10m前後の切岸で区画された幅10m前後の帯郭が敷設され、この南東側下には井戸があった「井戸の段」が配置されています。大手筋は北東麓の居館からのルートが想定され、現在の登山道は往時の大手筋をトレースしたものと思われ、山麓部分には大手筋を監視・防御する郭群が敷設されています。また大手筋が中枢部に入る直前には「菊の段」・「あやめの段」が構築され、最下段の帯郭に繋がる部分には傾斜と切岸で区画された木戸が構えられ、大手導線を防御する構造になっています。搦手は南西側の丘陵部で、ここは主郭から50−60m切り落とした堀切で遮断し、さらに丘陵部には南方方向に対する出丸・物見ヶ丸が敷設されていました。また西城川沿いの北方には蟻腰城・兜山城・胎蔵寺の柵が、北麓の明神山には「明神ヶ丸」が構築され、大富山城を防御する支城群が構えられていました。

 大富山城は天文2(1533)年、備後北東部を支配していた五品嶽城主 宮(久代)上総介高盛により築かれ、以後 久代宮氏の拠点となりました。『久代記』によると同5(1536)年、大富山城月山富田城主 尼子経久の攻撃を受けていますが、これを撃退しています。大富山城を拠点とした久代宮氏は庄原盆地への侵入を図り、甲山城主 山内首藤氏と対峙しましたが、天文22(1553)年の上総介景盛の代に毛利氏の支配下に組み込まれました。天正18(1590)年、豊臣秀吉の「小田原の役」に際して宮広尚は軍役負担を軽減しようと所領を過小申告したことが発覚し、出雲国塩谷(または伯耆国日野)へ移封され、大富山城には天野新兵衛尉元嘉が入城しました。慶長5(1600)年、「関ヶ原」で毛利輝元は西軍に与したため戦後、毛利氏は防長二州に減封され、天野元嘉も毛利氏に同道して萩に移りました。毛利氏退去後の安芸・備後には福島正則が入封し、五品嶽城には福島家の家老 長尾隼人正一勝が入城しましたが、大富山城はこの際 廃城になったようです。
歴史・沿革
大富山城 主郭
メモ
久代宮氏の「要害」
形態
山城
別名
・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・虎口・井戸祉・堀
場所
場所はココです
駐車場
北東麓の登り口近くのゲートボール場に駐車可能な空地あり
訪城日
平成21(2009)年3月19日
大富山城は西城市街地南端の大富山に築かれた山城で、東麓を南流する西城川を自然の濠としています。(写真左上) 山容は四周が急斜面になった独立丘陵に見えますが、南側で背後の丘陵に繋がっています。城へは北東麓の入江川沿いから登山道が整備され(写真左)、途中 護国神社(写真左下)を経て急斜面に敷設されたつずら折れの山道を登ります。なお登山道は旧大手筋をトレースしたものと思われ、山麓部に2−3段の段郭が敷設されています。(写真右下) また入江川は大富山城の内濠だったようです。(写真右上)
登山道は北東側の急斜面をつずら折れに敷設されているため結構 歩きます。(写真左上) でっ、じきに中腹部の「菊の段」を経て(写真右上)、中腹の「あやめの段」に辿り着きます。(写真右) どちらの郭も規模は15−20m四方ほど、これ以外にも東側斜面には郭があるのでしょうが ・・・・・。
「あやめの段」からさらに進むと、中腹を取り巻く帯郭に辿り着きます。(写真左下) 導線が帯郭に繋がる部分には坂虎口が設けられていたと思われますが、現在は切岸部分をぶち抜いた登山道が敷設されています。(写真右下)
「井戸の段」(写真左) 主郭の南東側下の郭で、幅5−6mの小郭。内部には径1−1.5mの井戸祉と思われる窪地が残存しています。でっ、「井戸の段」の上部に主郭をグルっと囲った幅5−10m前後の帯郭が構築されています。(写真右上) 主郭との高低差は最大10mほど(写真左)、北西側に物見と思われる小郭が敷設されています。(写真左下) 
主郭(写真右下) 規模は東西70m×南北30−40mほど、西城盆地を見下ろすことができ、現在は簡単な説明板と城址碑、小祠が祀られています。
主郭から南西側は30−40m切り落とした堀切で稜線を断ち切っています。堀切自体は車道建設で改変されていますが、相当デカカッタことが確認できます。なおここから南側の丘陵ピークには南方を監視した物見ヶ丸があるようですが未確認。 大富山の北麓明神山には明神が丸(二の郭に想定)が構築され、さらに西城川に沿った北方には兜山城・蟻腰城・胎蔵寺の柵等の支城群が構築され、大富山城を防御する構造になっています。また北麓には家臣屋敷地が構えられ、有事の際には砦として利用されたのでしょう。