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加藤景廉一族の墓所 |
静岡県伊豆市(旧修善寺町)牧の郷 |
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加藤景廉は平安末ー鎌倉初期の武将で通称 加藤次。景廉は治承4(1180)年、源頼朝が平家打倒の挙兵を起こすと 兄の光員とともにこれに参加し山木判官兼隆を討ち取ったと伝えられます。加藤氏は藤原北家魚名流
藤原利仁を祖とし、父の景員の代に伊勢から工藤介茂光を頼って伊豆に下向し土着したと伝えられます。平家滅亡、奥州藤原氏討伐後、景廉は「鎌倉幕府」創建に参画し有力御家人となりましたが、頼朝死去後の正治2(1200)年、「梶原景時の乱」に連座して失脚します。しかしその後、景廉は建仁3(1203)年の「比企能員の乱」、建暦3(1213)年の「和田義盛の乱」で幕府(北条)方に加担して幕府の中枢に返り咲いています。死没は承久三(1221)年八月三日。なお墓所のある地は景廉が出家後、建立したと伝えられる「真言律宗 金剛院」の推定地とされ、五輪塔は昭和33(1958)年の狩野川台風で流されたものを住民の手により集められ祀ったもの。誰の五輪塔かは不明。(場所はココです) |
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