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源 範 頼 の 墓 所 |
静岡県伊豆市(旧修善寺町)修善寺 |
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源範頼は平安末ー鎌倉初期の武将で、父は河内源氏の棟梁 源左馬頭義朝、母は遠江国池田宿の遊女(蒲御厨の有力者の女か?)と伝えられます。異母兄に源頼朝、異母弟に源義経がおり、通称は「蒲殿」「蒲冠者」。平治元(1160)年に勃発した「平治の乱」で父 義朝が敗北し尾張国知多で暗殺されると範頼は後白河院の院司 藤原範季に引き取られ養育されたと伝えられます。治承4(1180)年、兄 頼朝が平家打倒の兵を挙げた際の範頼の消息は不明ですが、遠江国で甲斐源氏の安田義定とともに反平家活動をおこない、寿永2(1183)年頃 鎌倉の頼朝のもとに馳せ参じたとされます。(範頼は甲斐源氏から派遣されたとする説あり) 翌寿永3(1184)年、範頼は頼朝の代官として鎌倉軍を率いて上洛します。同年、木曽義仲討伐を果たした範頼は義経と合流し、さらに平家の拠点 摂津国福原を目指しました。その後、範頼の率いた鎌倉軍は同年2月の「一の谷の戦」、翌元暦2(1185)年2月の「屋島の戦」で平家軍を撃破し、同年3月 平家は「壇ノ浦」で滅亡しました。そして範頼は九州に残って戦後処理にあたり、同年10月 鎌倉に帰還して父 義朝供養のための勝長寿院落慶法要に参列しています。その後も範頼は文治5(1189)年の「奥州藤原討伐」、建久元(1190)年の頼朝上洛に同道し、頼朝が大納言に任ぜられた拝賀の際には前駆をつとめています。しかし建久4(1193)年8月、範頼は頼朝から猜疑をかけられ、17日 伊豆修善寺の信功院に幽閉されます。そして翌18日、範頼の郎党に不審な動きがあるとして頼朝の手のもの(梶原景時か?)に責められ、自害したと伝えられます。(場所はココです) |
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信功院祉
修善寺に流された範頼は修善寺 「八塔司」のひとつ信功院に幽閉され、ここで自害したと伝えられます。現在、信功院祉は日枝神社の参道脇にあり、庚申塔が残るのみ。 |
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