源 頼 家 の 墓 所
静岡県伊豆市(旧修善寺町)修善寺
 源頼家は鎌倉幕府 初代将軍 源頼朝の嫡子として寿永元(1182)年、鎌倉比企ヶ谷の比企能員屋敷で生まれました。そして頼家の乳母には頼朝の乳母をつとめ 「蛭ヶ小島」の流人時代に経済的支援をおこなった比企尼の猶子 比企右衛門尉能員の妻が選ばれ、頼家は比企屋敷で養育されました。建久10(1199)年1月、頼朝が急死すると頼家が家督を継ぎ、二代将軍(鎌倉殿)となります。そして頼家は頼朝の側近だった大江兵庫頭広元、梶原平三景時の補佐を受けて政務を執り行いましたが、同年4月 幕府の運営は有力御家人十三人(註1)による合議制へと移行します。そして同年10月、梶原景時と他の御家人衆との対立が顕在化すると、糾弾された景時は頼家に弁明せず失脚しました。(「梶原景時の変」) この間、頼家の後ろ盾となっていた比企能員と頼家の弟 千幡(のちの実朝)を擁した北条時政の対立が激化し、建仁3(1203)年3月 頼家は千幡の乳母(阿波の局)の夫で叔父にあたる阿野全成(義朝の七男)を流罪のうえ謀殺します。そして同年8月、頼家が危篤状態に陥ると北条時政は、9月2日 仏事にかこつけて比企能員を名越の北条屋敷に招き謀殺しました。そして比企一族は頼家の嫡子 一幡の御所に籠りましたが、北条義時率いた幕府軍の攻撃を受けて族滅しました。(「比企能員の変」) 5日、危篤状態を脱した頼家は比企一族の滅亡を知り激怒します。そして頼家は仁田忠常、和田義盛に北条時政討伐の御教書を下します。しかし7日、頼家は北条政子の命により出家し、29日 伊豆修善寺に追放されました。そして翌元久元(1204)年7月18日、頼家は入浴中に北条の手のものに刺殺されたと伝えられます。(場所はココです)
(註1)大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛
源頼家の墓所 
源頼家の墓所 
碑は元禄16(1704)年の「頼家 五百回忌」にあたり修善寺の住職 伐山智船により建立された供養塔です。
源頼家の墓所 
碑の後ろ側にある五輪塔が頼家の墓石とされます。五輪塔は三基あり、それぞれ頼家頼家の室 若狭の局(比企能員の(むすめ))、頼家の嫡子 一幡のものと伝えられます。
源頼家の墓所 
<頼家の戒名>
「法華院殿金吾大禅閤」
指月殿 
頼家の墓所に隣接する指月殿頼家の菩提を弔うため母 北条政子が建立したもの。建物は伊豆最古の木造建築物。
十三士の墓 
頼家の死から6日後の7月24日、頼家の近習 十三士は謀反を企てたとの猜疑をかけられ、北条義時が派遣した金窪太郎行親らにより殺害されました。十三士の名は不詳。
十三士の墓