河 井 継 之 助 の 墓 所
福島県南会津郡只見町塩沢字上ノ台(医王寺境内)
 河井継之助は江戸末期、越後国長岡牧野藩の上席家老・軍事総監です。慶応3(1867)年10月、徳川慶喜が大政奉還すると朝廷は王政復古を宣言して幕府を廃止しました。翌慶応4(1868)年1月、「鳥羽伏見の戦」が開始され、これが「戊辰戦争」に拡大すると、上洛していた継之助は江戸に戻り武器の買い付けに奔ります。(ガトリング砲等を購入) 同年5月、会津藩討伐に動いた新政府軍が領内小千谷に迫ると、継之助はモンロー主義を主張して旧幕府勢力と新政府勢力の調停を新政府軍に申し出ましたが談判は決裂します。そして継之助は藩論を新政府軍との開戦にまとめ上げると長岡藩は新政府軍との戦闘に突入しました。長岡藩は当初、「北越戦争」を優位に進めていましたが、徐々に戦況は新政府軍優位に進み、長岡城も新政府軍に占拠されました。その後、長岡城は長岡藩軍に奪還されましたが、同年7月 新政府軍の猛攻を受けて ふたたび陥落し、戦闘で傷を負った継之助は会津を目指して出奔しました。八十里峠を越えて会津藩領 只見村に入った継之助はそこで、藩主 牧野備前守忠恭からの依頼で若松より只見に来た松本良順の診察を受けます。しかし継之助の傷は破傷風により手遅れな状態になっていて、同年8月16日(旧暦) 塩沢村の医師 矢沢宗益宅にて死去。享年 四十二歳。継之助の亡骸は塩沢村で荼毘に付されて葬儀は若松城下で執り行われ、遺骨は長岡の菩提寺 栄涼寺に運ばれて埋葬されました。そして荼毘の際、残った細骨は塩沢村の村人により塩沢村の医王寺に埋葬されました。只見町指定史跡。(場所はココです)
河井継之助の墓
河井継之助が会津をめざして八十里峠を越える際、よんだ句。
「八十里 腰抜け武士の越す峠」
河井継之助の墓
<継之助の戒名>
忠良院殿賢道義了居士