水 久 保 城
福島県南会津郡只見町只見字要害山、字後山
立地・構造
 水久保城は伊南川中流域の左岸、只見市街地北西側の丘陵ピーク(通称 要害山 標高705m 比高330m)に築かれた山城で、北側の稜線鞍部を自然の堀とし城を独立させています。城の規模は推定 東西100m×200mほど、城縄張りは山頂ピークを加工した南北の2郭構造になっていて、北側の主郭の東・西側に帯郭を敷設したシンプルな構造になっています。規模は主郭が東西20−25m×南北50m、二の郭(南郭)が東西30m×南北60mほど。大手筋は東麓の沼田地区からのルートが想定されます。城域は狭小ですが、伊南川、只見川沿いの沼田街道の眺望に優れていることから、「監視砦」あるいは有事の際「詰城」、また伊南川沿いに設けられた城砦群の番城として利用されたものと推測されます。

 水久保城は建保元(1213)年、横田氏により築かれたと伝えられます。(『新編会津風土記』) 横田氏の出自・事績は不明。その後、室町ー戦国期、「会津四家」の一つ 横田中丸城主 横田山内氏の支城として取り立てられたものと思われます。横田山内氏は藤原秀郷流の首藤氏(相模国山内在)を祖とし、刑部大輔経俊の代に源頼朝の「奥州藤原征討」に従軍して軍功をあげ、備後に所領を宛がわれて備後山内氏となります。そして会津(横田)山内氏は備後山内氏から分派した庶子家とされ、応永年間(1394−1428年)頃 経俊の四子 通直の系統が「伊北郷」に下向、土着して横田中丸城を築き、「山ノ内七騎党」と称される惣領制を組織して「伊北郷」を支配しました。天正17(1589)年、「摺上原の戦」会津黒川城主 蘆名義広を敗走させ、会津盆地を制圧した米沢城主 伊達政宗は奥会津の制圧を目論み、山内刑部大輔氏勝に従属を求めます。しかし氏勝がこれを拒否したため横田中丸城は伊達勢の攻撃をうけて陥落し、氏勝は越後春日山城主 上杉景勝と久川城主 河原田治部少輔盛次の支援を受けて水久保城に籠城して徹底抗戦しました。しかし翌18(1590)年、小田原の役」後の「奥州仕置」により横田山内氏は蘆名氏の被官として扱われ所領を没収されました。その後、会津に天正19(1591)年、蒲生氏郷が 慶長3(1598)年 上杉景勝が転封し、水久保城は支城として利用されたと思われますが、元和元(1615)年の「一国一城令」により廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
水久保城 主郭
メモ
「山之内固城六ヶ城」
「会津四家」 横田山内氏の「要害」
形態
山城
別名
水窪城・要害山 
遺構
郭(平場)・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
JR只見駅の駐車場借用
訪城日
平成16(2004)年10月2日 平成19(2007)年5月1日
水久保城はJR只見駅北方の通称 要害山に築かれた山城で、近くから見るとムチャクチャ圧迫感のある山容をしています。(写真左上ー南麓からの近景 写真右上ー西側からの遠景) でっ、要害山へは南麓の滝神社から登ります。(写真左) 神社の背後に山頂から尾根が延びており、まずは尾根を目指して直登します。でっ、尾根は痩せているうえ、ところどころ急傾斜になっていて、また藪のキツイ箇所もあります。(写真左下) でっ、しばらく登ると中腹からは前面に要害山が見ることができます。(写真右下)
(写真左上) 中腹から只見市街地を見たところ。丘陵の切れ目に伊南川が流れています。
(写真右上) 要害山の東側中腹には出丸と推測される秋葉山城がありました。
稜線を登り詰め、最後は斜面を攀じ登って辿り着いたのが、二の郭(南郭)と呼ばれる空間で、ここにTV中継局が建設されています。(写真右) 規模は東西30m×南北60mほどか。でっ、主郭の東・西側下に幅10m前後の帯郭が敷設され、二の郭(南郭)に繋がっています。(写真左下ー西側の帯郭 写真右下ー東側の帯郭)
主郭(写真左上) 規模は東西20−25m×南北50mほど、虎口は南側にあったようです。
水久保城は北側稜線の鞍部を自然の堀として独立させています。(写真右上)
管理人は二の郭の南西端に虎口を発見し(写真左)、ここから下山しようとしましたが、実はこの下にTV中継施設があり、虎口かどうか判断は難しいようです。(写真左下) でっ、南西側の尾根を降ったのですが、藪がひどかったため、再度 二の郭に戻り登ってきた登山ルートから下山しました。(写真右下)
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