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高浜城は若狭湾に突き出した小丘陵(比高15−20m)に築かれた平山城(岬城)で、丘陵部の東ー北ー西側は海で囲まれ、南側を堀で断ち切って城域を独立させていたと推測されます。規模は推定
東西100m×南北150mほど、郭配置は南側の丘陵頂部を加工して主郭(東西20−25×南北20−25m)とし、北側に二の郭(東西30×南北45−50m)を、東側斜面に小郭を設けています。全体的に規模は小さく、自然地形を加工して「要害」としています。また隣接して舟溜り等の港湾施設が敷設されていたとされます。
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高浜城の初源については『常田文書』に「逸見信濃守高浜御取被成、今ノ砕導山二御在城、逸見駿河守ハ穴山ニ城御築 ・・・・・ 永禄八年丑年ナリ天正九年巳迄十七年居城」と記され、高浜城は永禄8(1565)年頃 逸見駿河守昌経によって築かれたとされます。逸見氏は「逸見冠者」 源清光の嫡子 上総介光長を初源とする甲斐源氏の有力氏族でしたが、鎌倉期以降 逸見氏は清光の次子 信義を祖とする武田氏の支配下に組み込まれたものと推測されます。そして鎌倉中期、武田氏が安芸国守護職に任じられ安芸に下向すると逸見氏はこれに従い、また永享12(1440)年
武田伊豆守信栄が若狭国守護職となり若狭に下向すると、逸見氏は熊谷氏、粟屋氏等とともに若狭に同道しました。応仁元(1467)年、「応仁の乱」が勃発すると若狭国守護職 武田治部少輔国信は東軍に加担し、西軍に与した一色氏の丹後に侵攻して武力占拠しましたが、この際 武田氏の主力となったのが逸見駿河守宗見とされます。そして文明6(1474)年、細川・山名の和議が成立し、丹後は一色氏に返還となります。しかし逸見宗見はこれを承服せず、このため逸見勢は一色勢と対峙しましたが、逸見勢は敗北を喫して宗見は自害しました。そして宗見のあとを継いだ宗見の嫡子
国清は守護職 武田国信の執政をつとめていましたが、延徳2(1490)年 国信が死去し次子の大膳大夫元信が守護職を継ぐと、元信が粟屋左衛門尉親栄を重用したため粟屋氏の発言力が次第に強くなります。このため守護職
元信と逸見国清との間に溝が生じ、永正14(1517)年 国清は丹後国守護代 延永春信と共謀して叛乱を起こしましたが、乱は越前朝倉氏の援軍を得た武田元信に鎮圧され、逸見氏は家名を残すものの勢力を失墜させました。逸見氏がふたたび勢力を回復するのは天文ー永禄年間(1532−70年)、逸見昌経が出現してからになります。昌経は守護職
武田治部少輔信豊に仕えていましたが、弘治2(1556)年 信豊と嫡子の大膳大夫義統の対立が顕在化し信豊が近江に亡命すると、昌経は武田譜代の国吉城主 粟屋越中守勝久と結んで義統勢と対峙します。しかし永禄4(1561)年、朝倉義景の援軍を得た義統に砕導山城を攻略され、このため昌経は拠点として新たに新城を築く必要性に迫られ、築いたのが高浜城とされます。そして永禄8(1565)年、高浜城を拠点に昌経は守護職 武田氏と再度 対峙します。翌9(1566)年、昌経は水軍を編成して義統を攻撃しましたが、この一戦でも敗北を喫しました。同10(1567)年、義統の死去により若狭国守護職は嫡子の元明が継ぎましたが、翌11(1568)年
元明は若狭に侵攻した越前朝倉勢に拉致され一乗谷に軟禁されます。一方、昌経は上洛を果たした織田信長と誼を通じ、元亀元(1570)年の「越前朝倉攻め」に参陣します。以降、昌経は織田勢の与力として各地を転戦し若狭衆最大の勢力に成長しましたが、天正9(1581)年に死去しました。そして逸見氏の所領は昌経の嫡子
源太虎清に相続されることなく、溝口伯耆守秀勝と武田元明に分配され逸見氏は断絶となりました。逸見氏没落後の高浜城には溝口秀勝ー山内一豊ー木下利房が順次 入城し、慶長5(1600)年の「関ヶ原」後 若狭国主として京極高次が後瀬山城に入城すると、高浜城には重臣の佐々義勝が城代として据えられました。そして京極氏のあと小浜城主となった酒井讃岐守忠勝の代の寛永11(1634)年に廃城。廃城後は「大飯郡」の御蔵が置かれたと伝えられます。 |
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若狭国守護職 武田氏の譜代 逸見氏の館城 |
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平山城(岬城) |
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郭(平場)・櫓台・土塁・堀? |
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場所はココです |
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城山公園駐車場 |
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平成18(2006)年3月19日 |
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高浜城は日本海に突き出した岬に築かれた岬城で、陸続きの南側以外の三方向は海に面した絶壁みなっています。(写真左上ー南東側から 写真右上ー東側からの遠景
写真左ー砕導山城からの遠景) 往時、南側の陸続き部分に堀が設けられていたと思われますが、痕跡はなく 現在はここから散策路が設けられています。(写真左下) |
明鏡洞(写真右下)
高浜城から入江を挟んだ東側の岬にある洞窟で、風光明媚な高浜海岸のシンボルになています。 |
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主郭(写真左上) 城山の南端頂部に位置し、規模は東西10×南北20−25mほど。中央に櫓台と思われる高さ1mの土壇が築かれ(写真右上)、また内部には逸見氏の慰霊と顕彰のための濱見神社が祀られています。でっ、東側に堀切?を挟んで小郭が設けられていますが、堀切?は後世のものなのでしょう。(写真右)
本来の主郭はこの小郭を含む東西20−25×南北20−25mほどと思われます。 |
二の郭(写真左下) 主郭の北側に位置し、規模は東西30×南北45−50mほど、北側縁に分厚い土塁が確認できます。(写真右下) |
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