鶴 首 城
岡山県高梁市(旧成羽町)成羽町下原・鶴首山
立地・構造
 鶴首城は成羽川の左岸、成羽地区南方の鶴首山(標高331m 比高250m)に築かれた山城で、頂部に築かれた主郭部と北東側尾根の小ピークに築かれた二の郭群からなります。主郭部は南北七つの壇からなる郭群で全体の規模は東西80m×南北130mほど。中心になる一の壇は東西30m×南北40mほど、西ー北ー東側には二の壇が、南側に三の壇一の壇を囲郭するように敷設
現地案内板の図
されています。一の壇二の壇・三の壇とは2m前後の段で区画され、北ー西側には石積が見られ、往時は全周していたと推測されます。ニの壇の北側下には15−20mほど切り落として七の壇(現地表示は馬場)が配置されています。規模は東西30m×南北20mほどしかなく、馬場として利用されたとは思われず、主郭に繋がる導線を監視した郭だったと思われます。北東尾根からの導線は馬場を通り、二の壇の東側斜面から一の壇に繋がっていたと想定されます。また三の壇の南側に四の壇・五の壇が配置され、南側尾根筋に対する構えとなっています。北東側尾根の小ピーク(標高230m 比高150m)に築かれた二の郭は20m四方ほどの小郭で、北・南側に3−4mの段で区画された腰郭が敷設されています。ただし隣接した南・北側尾根には堀切は見られず、段切のみを防御手段としています。大手筋は北麓から太鼓丸を通り主郭・二の郭間の尾根に繋がるルート(現在の登山道)が想定され、二の郭はこの尾根筋を防御するために配置されたと思われます。鶴首城は南北700mにわたる尾根を城域とした広大な城郭ですが、郭自体は主郭部二の郭に遍在した小規模な郭群からなり、基本的には要害地形を最大の防御手段とした「詰城」と想定されます。また主郭部から南西1kmには「武士池」と呼ばれる溜井があるようですが未確認。

 築城時期・築城主体ともに不明。『備中府志』によると文治5(1189)年の「奥州藤原討伐」で軍功のあった鎌倉御家人 河村秀清が備中に所領を得て築いたのが初源とも。通説では天文2(1533)年、備中国「星田郷」を本拠としていた備中衆 三村紀伊守家親により築かれたと伝えられます。三村氏はもともと常陸国筑波郡「三村郷」を本貫とした鎌倉御家人(小笠原氏)で、承久3(1221)年に勃発した「承久の乱」の軍功により新補地頭として備中に入部したと推測されます。そして「星田郷」に土着した三村氏は南北朝以降、度々 天竜寺の荘園だった「成羽郷」への侵入を繰り返し、備中国守護職 細川氏から注意を受けています。永正5(1508)年、大内義興が足利義稙を擁して上洛した際の備中衆の中には備中国守護代 石川、庄氏と並んで三村宗親の名が見られ、この頃までに三村氏は「成羽郷」を押領していたと推測され、同14(1517)年には多治部氏とともに新見荘へ派兵しています。そして宗親の子 家親の代に成羽に鶴首城を築いて拠点を移しました。家親は備中の最大勢力 庄為資とともに尼子方に与していましたが、天文22(1553)年 毛利の備中攻略が本格化すると毛利と盟約を結び、同年 猿掛城を攻略して嫡子の式部少輔元祐を為資の養子として庄家へ送り込みました。さらに永禄3(1560)年には為資の子 高資の松山城を攻略し、翌年 鶴首城から松山城に拠点を移すと、鶴首城には弟の紀伊守親成を配しました。同6(1563)年、家親は備前・美作侵攻を開始して宇喜多方の城を次々と攻略しますが、同9(1566)年 美作国久米の陣中で宇喜多直家が送り込んだ刺客により銃殺されます。(異説あり) 家親の弟 親成は兄の死を隠して帰陣し、そして三村家の家督は家親の次男 修理進元親が継ぎました。翌10(1567)年、元親は備前国明禅寺に侵攻して宇喜多勢と対峙しましたが、この「明禅寺合戦」で三村軍は惨敗を喫し、さらに松山城を庄氏に奪われた元親は鶴首城を拠点としました。元亀元(1570)年、元親は庄氏を駆逐してふたたび松山城を奪還し、天正2(1574)年 宇喜多直家が毛利と同盟を結んだため、叔父 親成の反対を押し切って織田信長と盟約を結び、このため親成・親宣父子は三村氏から離脱して毛利へ身を寄せます。同3(1575)年、毛利・宇喜多連合軍が備中に侵攻して松山城を攻略、このため元親は自害して三村氏は滅亡しました。(「備中大乱」) この際、鶴首城も落城し、戦後 鶴首城には毛利に与した三村親成・親宣父子がふたたび入城しました。しかし慶長5(1600)年の「関ヶ原」で毛利輝元が西軍に与したため防長二州に減封され、そして三村氏は毛利の禄から離れました。同年、成羽には旧宇喜多家の家臣 岡越前守家俊が入封しましたが、同19(1614)年の「大阪の陣」で大阪方に加担したため没落。元和3(1617)年、山崎甲斐守家治が因幡国若桜から成羽に転封して鶴首山麓に居館を築いたため、鶴首城は廃城となりました。
歴史・沿革
鶴首城 主郭一の壇の石積
メモ
備中の有力国人 三村氏の「要害」
形態
山城
別名
 成羽城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・石積・井戸祉・堀
場所
場所はココです
駐車場
高梁市役所成羽庁舎の駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年3月18日
鶴首城は成羽川の南岸、成羽地区を見下ろす鶴首山に築かれた山城です。山麓から見ると急峻な断崖上に位置するのがわかり、また圧迫感あります。(写真左上) でっ、城へは北麓の近世 山崎陣屋(写真右上)から太鼓丸公園(写真左)を経由して登山道が整備されています。中腹部には太鼓丸と呼ばれる小郭が設けられ(写真左下)、尾根まではつずらおれの安定した登山道になっています。(写真右下)
二の郭(写真左上) 規模は20m四方ほど、北・南側に3−4mの段で区画された腰郭が敷設され(写真右上)、東側に設けられた坂虎口で上段に繋がっています。(写真右) 北・南側の尾根筋には堀切が見られず、段切のみを防御手段としていたようです。内部は藪茫々になっていて、南側の郭に石積で造られたと思われる井戸祉(らしきもの)が見られます。(写真左下) なお二の郭から主郭部に繋がる稜線には小社が祀られています。(写真右下)
馬場(左上) 案内図の主郭部七の壇。規模は東西30m×南北20mほど、現地表示にある馬場の規模はなく、主郭に繋がる導線を監視した郭だったのでしょう。馬場から主郭部へは高さ10−15mの切岸を坂虎口状に登るように設定されています。(写真右上) 
二の壇(写真左・左下) 一の壇の西ー北ー東側をカバーした平場で規模は幅15−20mほど。一の壇とは高さ1.5−2mの段で仕切られ、北東端の坂虎口で繋がっています。(写真右下)
一の壇(写真左上)
規模は東西30m×南北40mほど、思ったより広い平場になっていて、二の壇・三の壇を含めるとまとまった平場になっています。二の壇・三の壇とは高さ1.5−2m前後の段で区画され、北ー西側に石積の痕跡が認められます。(写真右ー西側の石積 写真左下ー西側の石積 写真右下ー北側の崩落石塁) 北東端には虎口を区画したと思われる低めの土塁が築かれています。(写真右上)
一の壇の南側には三の壇・四の壇・五の壇が階段状に構築されています。規模は三の壇が東西20m×南北30mほど、東側は二の壇に繋がっています。(写真左上) 四の壇(写真右上)・五の壇(写真左)はそれぞれ東西20m×南北10mほどの小郭、五の壇の南端は10−15m切り落として二重堀で処理されています。(写真左下・右下) なおここから南西1kmには「武士池」と呼ばれる溜め井があるようですが ・・・・・、行っていません。
ー 三 村 氏 館 ー
 天文2(1533)年、三村家親が「星田郷」から成羽に拠点を移して鶴首城を築いた際、平時の居館として築かれたとされます。規模は東西190m×南北170mほど、方形館を基本としながらも南東端を突き出した特殊な形態をしていたようで、周囲は土塁
鶴首城からの遠景

現地説明板の図
と幅15−20mの濠で囲郭されていたようです。現在、館祉周辺は成実公民館・学校校地・宅地化され遺構は残存していませんが、大手門前の南側と西側には濠祉と思われる微かな段差が見られます。(場所はコノヘンです)
(写真左) 大手門祉
(写真左下) 大手門前の濠祉
(写真右下) 南側の濠祉
 
ー 成 羽 陣 屋 ー
 成羽陣屋鶴首山の北東麓に構築された近世陣屋です。万治元(1658)年、讃岐国丸亀藩主 山崎甲斐守家治の次男 豊治が成羽領五千石を分知され、御殿として築いたとされます。以後、山崎氏が「交代寄合」として「明治維新」まで成羽陣屋に居住しました。規模は東西300m×南北80−90mほど、周
現地説明板の図
囲は高さ3−4mの石垣で囲い、北側に向って御庫門・大手門・御作事門が、西側に裏門が設けられ、屋敷内部には御庫・書院・御作事場が建てられていました。現在、御庫跡は成羽小学校の校地、書院跡は高梁市役所成羽支所、成羽町美術館になっています。
(写真左上) 大手門前・御下馬
(写真右上) 大手門
内部は桝形構造になっているほか、西側の塁線が折り曲げられ、横矢が掛かっています。また石垣は成形した切石で構築されています。
(写真左) 御作事門
大手門同様、西側の塁線が折り曲げられ、横矢が掛かっています。
北東隅の石垣、「野面積」が採用されています。  南側の石垣、塁線には明確な「折れ」が見られます。
秋田の中世を歩く