備 中 松 山 城
岡山県高梁市内山下
立地・構造
 備中松山城は高梁市街地を望む高梁川左岸の臥牛山(標高487m 比高400m)一帯を城域とする山城で、南北に並ぶ大松山ー天神山ー小松山ー前山の4つのピークを中心に展開されています。城の規模は東西450m×南北1300mほど、大きくは北側の大松山・天神山を中心とする中世の松山城小松山・前山からなる近世城郭に改修された部分からなり、どちらもシンプルな連郭構造で構築されています。このうち小松山を中心に構築された近世松山城は東西250m×南北700mほど、小松山頂部(標高430m 比高350m)の本丸を中心に南側斜面に階段状に郭が配置され、周囲は総石 備中松山城 現地リーフレットの所収図
現地リーフレットの所収図
垣で構築されています。規模は本丸が東西30m×南北60m、二の丸が東西40m×南北50m、厩曲輪が東西50m×南北15m、三の丸が東西40m×南北30mほど、北側稜線は石積で構築された堀切で断ち、近世 松山城を完結させています。三の丸の南東端下に大手桝形が設けられ、導線は三の丸厩曲輪の西側側面を通り、二の丸南東端の黒門に繋がっています。導線は高石垣と土塀で区画され二度クランクし、また土塀に矢挟間・筒挟間が残存しています。大手導線は南西麓に設けられた「御根小屋」(近世の藩庁施設)から前山を通り大手桝形に繋がっていますが、この間 前山には下の太鼓丸、小手桝形下には上の太鼓丸が構えられ、番所の性格があったものと思われます。現在、城址は復元整備され、城郭パーツ等は良好な状態で保存されています。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には仁治元(1240)年、「承久の乱」後 備中国「有漢郷」の新補地頭に補任されてこの地に入部した相模三浦党の秋庭三郎重信が臥牛山に城砦を構えたのが初源とも。その後、南北朝期の元弘年間(1331ー33年)頃 備後三好(三吉)氏の一族 高橋九郎左衛門宗康が入城し、城郭を小松山まで拡大して城名を「高梁城」から「松山城」に改称したと伝えられます。文和4(正平10 1355)年、足利将軍家の執事職 高師泰の子 越後守師秀が備中国守護職として松山城に入城しましたが、貞和元(正平17 1362)年 師秀は山名と通じた城代 秋庭三郎信盛のクーデターにより松山城から追放され、以後 松山城は秋庭氏の主城となりました。室町期、秋庭氏は幕府から重用されましたが、「応仁の乱」(応仁元 1467年)を境に次第に勢力は衰退し、永正6(1509)年 幕臣 上野信孝が将軍 義稙から松山城を宛がわれて「有漢郷」に勢力を拡大しました。(一説には信孝の次男 頼久とも) しかし天文2(1533)年、松山城は尼子を後盾とした猿掛城主 庄為資の攻撃を受けて落城、上野氏は滅亡し、松山城は 庄氏の属城となりました。その後、備中国内では毛利を後盾とする鶴首城主 三村紀伊守家親と庄備中守為資が対峙しましたが、天文22(1551)年 庄氏は毛利と講和を結び、また三村氏とも和睦が成立しました。永禄11(1568)年、庄氏が毛利の九州侵攻に備中衆として参陣すると、宇喜多直家はこの隙をついて備中に侵攻し、このため庄氏は宇喜多に降伏して支配下に置かれました。しかし元亀2(1571)年、備中に侵攻した毛利元清の攻撃を受けて松山城は陥落し、松山城は毛利から三村修理進元親に宛がわれ、この頃 松山城は臥牛山全域に拡大されたものと推測されます。天正2(1574)年、毛利・宇喜多の同盟が結ばれると三村元親は毛利から離脱して織田信長と結びます。このため備中国内では三村と毛利・宇喜多連合軍が激しく対峙し(「備中兵乱」)、同3(1575)年 松山城は小早川隆景の攻撃を受けて陥落して三村元親は自害しました。その後、松山城には城代として毛利の家臣 天野五郎左衛門元祐・桂民部大輔広繁が順次 配されています。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、松山には備中代官 小堀政次が配されて「備中松山藩」を立藩、この頃 麓に「御根小屋」が構えられました。その後、松山城には元和3(1617)年、因幡国鳥取から池田長幸が、寛永19(1642)年 備中国成羽から水谷勝隆が、元禄8(1695)年 上野国高崎から安藤重博が、正徳元(1711)年 山城国から石川総慶が、延享元(1744)年 伊勢国亀山から板倉勝澄が入城し、板倉氏が「明治維新」まで在城しました。幕末の藩主 伊賀守勝静は陸奥白河藩主 松平定永の八男で板倉勝職の婿養子になり、また文久2(1862)年には幕府の老中首座に起用されました。そして慶応4(1868)年の「鳥羽伏見の戦」以降、勝静は旧幕府軍に加担して箱館まで転戦し、このため新政府から松山藩追討令が出され、松山城は無血開城により岡山藩に接収されました。明治6(1873)年、「廃城令」により破却。
歴史・沿革
備中松山城 本丸の現存天守
メモ
中世 ー 秋庭・三村氏の要害」
近世 ー 備中松山藩の藩庁
形態
山城
別名
高梁城・小松山城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・石垣・櫓台・現存天守・現存櫓・復元御門・復元櫓・堀
場所
場所はココです
駐車場
ふいご峠に専用駐車場あり
訪城日
平成21(2009)年3月18日
備中松山城は高梁市街地北方の臥牛山全域に構築された巨大な山城です。(写真左上) 城へは中腹のふいご峠まで車で登ることができ、そのあとは本丸まで散策路が設けられています。(土・日は一般車の通行は規制され、山麓の城見橋公園からふいご峠までシャトルバスあり) ふいご峠と本丸との比高差は120mほど、その中間部に上の太鼓丸が構築され、いきなり高石垣が見られます。(写真右上・左) でっ、櫓台からは高梁市街地が一望でき(写真左下)、ここからすぐに大手門に辿り着きます。(写真右下)
大手門は前後左右から横矢がかかる桝形構造になっていて(写真左上)、このあと導線は三の丸の西側側面をスロープ状に敷設されています。(写真右上) 導線西側の土塀は往時のものが現存し、矢挟間・筒挟間が備えられています。三の丸の規模は東西40m×南北30mほど(写真右)、前面に厩曲輪の高石垣が迫り、二の丸への導線は厩曲輪の側面を通っています。(写真左下) 厩曲輪の規模は東西50m×南北15mほど、ま 〜〜〜 馬屋があったのでしょう。(写真右下)
でっ、厩曲輪の北西部に黒門が構えられ、ここで導線は折り曲げられています。(写真左上・右上) 導線はこのあと二の丸の南側斜面をスロープ状に登り、二の丸南東端の鉄門に繋がっています。(写真左) ま 〜〜〜、近世松山城自体それほど規模の大きいものではなく、また単調な階郭構造のため質素感は否めませんが、導線構造だけは理にかなった堅固な構造になっています。二の丸の規模は東西40m×南北50mほど、北東端は本丸の東側をカバーした帯郭に連続し(写真左下)、本丸とは南御門で繋がっています。(写真右下ー南御門)
本丸(写真左上)
規模は東西30m×南北60mほど、南端に五の平櫓と六の平櫓で構築された南御門が構えられています。(写真右上) 現存する天守は二層二階構造、自然の岩盤の上に櫓台を組み、西側に付櫓が敷設され、導線は途中でわざとクランクさせています。(写真右) 内部には石落としや暖を採ったと思われる囲炉裏が見られます。(写真左下・右下) また東側に東御門が設けられ、搦手口に繋がっていました。
(写真左上) 東側の石垣
(写真右上) 本丸東御門、南御門同様、復元された御門。本丸の搦手口に相当します。
(写真左) 搦手門、掘り込み式の桝形構造になっています。
(写真左下) 現存二重櫓、本丸同様、自然の岩盤の上に櫓台が設けられています。南・北に出入口が設けられ、北側は後曲輪に、南側は本丸天守に通じています。
(写真右下) 後曲輪、規模は東西15m×南北20mほど、北西隅に櫓台が設けられています。
後曲輪から北側稜線は堀切で断ち切られ、近世松山城はここで完結します。(写真右) 堀切は山城としては特段珍しいものではありませんが、近世城郭としてはレアな遺構ではあります。また石垣で切岸を構築した堀切というのは、ま 〜〜〜、彦根城等でも見られますが、シャープさではここが一番でしょう。でっ、ここから大松山に向います。 
ー 大 松 山 ー
 近世松山城から比高差50mの天神山ー大松山を中心に構築された中世山城です。規模は東西400m×南北550mほど、近世松山城中世松山城のごく一部で、中世松山城から切り離されて構築されており、本来(中世)の中心はこちらにあったと思われます。郭配置は2つのピーク、大松山天神山(臥牛山)を中心に南・北西側稜線に展開され、基本的には堀切と段差を利用したシンプルな構造になっています。規模は大松山主郭)が東西60m×南北60m、天神山天神の丸)が東西30m×南北60mほど、比較的規模の大きい郭の集合体になっています。大手筋は南側の近世松山城からのルートが想定され、導線上には石積で構築された相畑の郭群や井戸祉が見られ、生活空間が設けられていたと思われます。また天神の丸主郭間の鞍部にも大池と呼ばれる石積囲いの貯水池が設けられており、長期間にわたり居住できる構造になっていたと思われます。全体的に「如何にもっ」といった古い形態の中世山城ですが、西麓を流れる高梁川流域や高梁市街地が眺望でき、軍事的な重要拠点として取り立てられたものと思われます。(場所はココです)
近世松山城大松山の比高差は70mほど、北方向に向かう稜線は思ったより緩斜面になっています。(写真左上) でっ、導線沿いには古いと思われる石積が各所に見られ(写真右上)、じきに相畑と呼ばれる平場に着きます。(写真左) 相畑は低い段で数段に区画された郭群で、下部には井戸が見られることから居住空間が設けられていたと思われます。でっ、相畑から大松山方向に進むと低い土塁と切岸で区画された虎口が現れ(写真左下)、虎口の西側がせいろう壇と呼ばれる平場で規模は東西20m×南北40mほど(写真右下)、導線を監視した番所の性格があったのでしょう。
せいろう壇の北側には1段 高い平場が設けられていますが、内部は藪々々 北側に自然の岩盤を利用したと思われる土塁が構えられています。(写真左上) この郭の北側は天神の丸と遮断さた堀で処理されています。(写真右上) 堀の規模は幅7−8m×深さ5−6mほど。天神の丸は臥牛山の最高所に位置し、規模は東西30m×南北60mほど、北端に自然の岩を利用したと思われる土塁(櫓台?)が築かれています。(写真右・左下) でっ、天神の丸の北側稜線の鞍部には大池と呼ばれる石組の貯水池があります。(写真右下) 規模は10m×20mほど、中世に使用された井戸を近世、再利用されたのでしょう。
天神の丸の北側ピークには大松山があり、このピークから北西方向に延びた稜線は堀で断ち切って連郭構造の郭群に加工されています。このうちピークの郭が主郭に想定され規模は東西60m×南北60mほど(写真左上)、西側は緩い堀で断ち切られ二の郭に繋がっています。(写真右上) でっ、堀底はゆるい南側斜面に吸収され、じきに平坦になり、ここにも石積で補強された井戸祉が見られます。(写真左) 二の郭の規模は東西60m×南北40mほど(写真左下)、西側は比較的規模の大きい堀切で三の郭と断ち切っています。(写真右下)
秋田の中世を歩く