資 福 寺 館
山形県東置賜郡高畠町夏茂元夏刈字寺内
立地・構造
 資福寺館は東置賜盆地の中央北寄り、最上川右岸の段丘上に築かれた方形館を模した寺院遺構で、西側は最上川の氾濫原・湿地帯に隣接していたと思われます。規模は推定 東西270m×南北350mほど、西側を除く三方に濠と土塁が設けられ、内部は北西部に設けられた本堂祉をカバーするように東に二重、南側に三重の濠が巡らされていました。本堂祉の規模は東西130m×南北160mほど、現在は耕作地になっています。また本堂祉の東ー南側の外郭部分は現在 一般の民家敷地になっています。
 資福寺は弘安年間(1278−87年)、鎌倉幕府の評定衆で置賜郡「長井荘」の地頭職 長井(大江)宮内権大輔時秀により創建されたと伝えられます。(時秀は鎌倉、京に居住し「長井荘」は代官支配されていました) その後、資福寺は長井大江氏の庇護を受けて出羽国の有力寺院となり、禅門、学問 の中心となりました。そして至徳2(元中2)(1385)年、伊達弾正少弼宗遠、大膳大夫政宗父子が長井大江氏を滅ぼして置賜を制圧後、資福寺は伊達氏の帰依を受けて手厚く保護されました。天正19(1591)年、資福寺は伊達政宗の岩出山転封に同道し、その後 寛永15(1638)年、仙台に移築されました。 
歴史・沿革
資福寺館 伊達輝宗の墓所
メモ
長井大江氏、伊達氏の帰依寺
形態
平城(城郭寺院?)
別名
資福寺
遺構
郭(平場)・土塁・濠(祉)
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車(堤防上に路側帯あり)
訪城日
平成24(2012)年10月22日
資福寺館は最上川上流域の東岸、現在の夏刈地区に吸収されていますが、遺構はあちらこちらに散見できます。(写真左上ー南側からの遠景) でっ、夏刈地区の宅地、民家は本堂祉の東ー南側をカバーするようにL字状に建てられ、L字部分が城郭に置き換えると外郭部分になるのでしょう。でっ、外郭ラインは明瞭に残存し、北側に濠祉と高さ2mの土塁が(写真右上・左)、北東隅にL字状に折れ曲がる土塁が確認でき(写真左下)、また東側は車道が敷設されているため不明瞭ですが、東門があったと伝えられます。(写真右下)
本堂祉(写真左上) 資福寺館の北西隅に位置し規模は東西130m×南北160mほど、内部に伊達持宗が比叡山の仏師に刻ませ本尊とした観音堂があったようです。ま 〜〜〜、境内は相当広いですから、当然 壮大な伽藍が構えられていたのでしょう。元亀3(1572)年、伊達輝宗は虎哉宗乙禅師を甲斐から資福寺の住職として招き、嫡子の政宗の学問の師としています。また本堂祉の東側に二重、南側に三重に濠が巡らされていたようです。(写真右ー南側の内濠祉、幅6−7m 写真左下ー南側の中濠祉か? 写真右下ー東側の内濠祉)
(写真左上) 伊達儀山公政宗の墓所、至徳2(元中2)(1385)年、父の弾正少弼宗遠とともに置賜を制圧。後に「鎌倉府」の強権支配に対して叛旗を翻し、伊達家中興の租と呼ばれています。
(写真右上) 伊達輝宗の墓所、「天文伊達の乱」(天文11−17 1542−48年)以後、伊達氏が抱えていた負の遺産を解消させ伊達氏をふたたび南奥の最大勢力に回復させた名主。天正13(1585)年10月、二本松裁定の調停にあたった際、二本松城主 畠山義継に拉致され殺害されました。
(写真左上) 遠藤基信の墓所、輝宗時代の外交担当の重臣。天正13(1585)年10月、輝宗の墓前で殉死。
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