十河一存 存保の墓所
香川県高松市十川東町
 十河(そごう)は景行天皇の皇子 神櫛王を祖とする植田氏の一族で、鎌倉期 十河を領した国衆だったと推測されます。南北朝期以降、讃岐の守護職は細川京兆家が継承し、細川氏は在地国衆の被官化を図り、この際 十河氏等の植田党はその影響下に置かれました。応仁元(1467)年、「応仁の乱」が勃発すると十河氏等の讃岐衆は守護職 細川勝元の命により京に出陣しています。その後、細川家中の内訌により細川氏の勢力が衰退すると、十河氏は阿波の三好之長(ゆきなが)ら三好党と結んで香西氏と対峙しました。享禄4(1531)年、「大物崩れ」で細川高国が自害し、敵対する細川晴元が細川京兆家の実権を握ると、讃岐では三好筑前守元長を後盾とする十河景滋(存春)に制圧され、香西氏はその支配下に組み込まれました。そして天文年間(1532-55年)中期頃、景滋は三好元長の四子(三好長慶の実弟) 一存(かずなが)を養子に迎えました。天文18(1549)年、三好長慶政権が確立されると一存は畿内各地に転戦し、和泉国岸和田城主に任ぜられます。しかし永禄4(1561)年、一存は病を患い死去し、十河家の家督は一存の兄 豊前守実休の子 隼人正存保(ながやす)が継ぎました。永禄9(1566)年、阿波三好家の重臣 篠原右京進長房が阿波公方 足利義栄を擁して上洛した際、長房は存保と阿波三好家当主 長治(存保の実兄)を帯同しています。元亀3(1572)年、長治と長房の関係が悪化し長房が上桜城に籠ると、存保は阿波衆、讃岐衆を率いて上桜城を攻撃し長房を討ち取ります。同年、讃岐の国衆 香川之景、香西佳清が長治の治政に反発して反三好の動きを見せます。さらに天正3(1575)年、土佐の長曾我部元親が阿波に侵攻し、阿波国守護職 細川掃部頭真之と結んで長治と対峙しました。そして同5(1577)年、長治は細川勢との(いくさ)で討死にし、阿波三好家は滅亡しました。しかし同6(1578)年、阿波三好家中は存保を勝瑞城に迎え入れ、細川・長曾我部と対峙しました。そしてこの間の天正3(1575)年、存保は織田信長に降伏して織田の軍役を担い、土佐の長曾我部、中国の毛利と対峙していましたが、同10(1582)年 信長が「本能寺」で横死すると十河城、勝瑞城は土佐衆、讃岐衆、阿波衆の攻撃をうけます。このため存保は勝瑞城を出て中富川畔に陣を構えて長曾我部勢を迎撃しましたが、長曾我部勢に敗れて降伏し 讃岐虎丸城に退去します。(「中富川の戦い」) そして存保は信長の後継者の位置に台頭した羽柴秀吉に支援を依頼しましたが、柴田勝家と対峙していた秀吉に余力はなく、この間 十河隼人佑存之(一存の庶子)の籠る十河城は落城しました。天正12(1584)年、虎丸城は長曾我部勢の攻撃を受けて陥落し、存保は秀吉を頼って大阪に逃れました。同13(1585)年、秀吉が「四国の役」を開始すると存保は これに参陣して戦後、旧領の讃岐十河城を回復しました。そして翌14(1586)年、「九州の役」が開始されると存保は仙石越前守秀久の与力として豊後に出陣しましたが、「戸次川の戦」で島津家久勢に敗れ、存之とともに討死にしました。そして存保は死の直前に嫡子 千松丸を秀吉に伺候させるよう家臣に頼みましたが、千松丸高松城主 生駒雅楽頭親正に養育され、同17(1589)年 秀吉との謁見後、病死したと伝えられます。(一説に毒殺とも)(場所はココです)
十河一存 存保の墓碑 
写真画像は左から一存、千松丸、存保の墓碑
十河一存 存保の墓碑 
十河左衛門尉一存の墓碑 (写真左上)
<一存の戒名>
「靭翁宗活公禅定門 靭翁活公禅定門」
 
千松丸の墓碑(写真右上)
 
十河民部大輔存保の墓碑 (写真左)
<存保の戒名>
「眞光院殿義賢實存禅定門 龍雲院殿義賢實存大居士」
十河城