光 雲 寺
奈良県高市郡高取町越智
 正式名称は「越智山 光雲寺」。宗派は黄檗宗、御本尊は阿弥陀如来。創建は南北朝期の貞和2(正平元 1346)年、大和「越智党」の領袖 越智邦澄(伊予入道宗林)が越智家の菩提寺として禅寺(臨済宗)の興雲寺を建立したのが初源と伝えられます。その後、文安3(1446)年 京の竜安寺を開創した義天玄紹(ぎてんげんしょう)禅師が招かれて興雲寺は再興され、越智氏の庇護を受けて寺は繁栄したと伝えられます。しかし天正11(1583)年、越智玄番頭家秀が筒井順慶の圧迫を受けて自害すると越智氏は滅亡し、このため大檀那を失った興雲寺は以後 衰退の一途をたどりました。そして天和年間(1681-84年)、黄檗宗の禅僧 鉄牛動機(てつぎゅうどうき)禅師(大慈普応国師)がこの地に赴任し、寺を黄檗宗寺院に改宗して復興するとともに、名称も「興」の字を「光」に改めました。(場所はココです)
参道と厄除杉 
参道脇の「厄除杉」は幹周 5.2m、樹高 15m。「越智党」の領袖 越智邦澄が元弘2(1332)年、高取城を築城した際、植えたと伝えられます。
山門 
光雲寺五世 覚林浄省禅師の代に建立された鐘楼門。「扁額」は高取藩 九代藩主 植村駿河守家長の書。
本堂 
元禄11(1698)年、光雲寺四世 天湫元龍禅師の代に建立。県の重要文化財に指定。
越智邦永・邦澄父子の墓所
越智邦永・邦澄父子の墓所 
「越智党」の領袖 越智邦永(写真左)は鎌倉末期の正和5(1316)年、北条得宗家に所領を搾取されたため叛乱を起こし、六波羅探題軍に討伐されたと伝えられます。(『大和国越智家系図』) 邦永の嫡子 邦澄(写真右)は南北朝期、南朝方に加担しています。
越智一族の墓 
越智一族の墓所
越智一族の墓所と供養塔