高 取 城
奈良県高市郡高取町高取
立地・構造
 高取城は奈良盆地の南東部、通称 高取山(標高584m 比高460m)に築かれた巨大な山城です。規模は(広義)東西800m×南北1200m、(狭義)東西600m×南北750mほど、城縄張りは高取山山頂部を加工した本丸(主郭)を中心に北東・北西側稜線に郭を敷設した変則的な連郭式縄張りが採用されています。頂部を加工した本丸は東西75m×南北65mほど、周囲 image31559.jpg
webサイト「高取町観光ガイド」の所収図
を高さ8-12mの高石垣で加工し、四隅に設けられた五基の天守・櫓を多聞櫓で繋いで郭を囲った「連立式天守」構造になっていました。虎口は北側中央に設けられ、コ状の導線で本丸に入るように設定されています。本丸の西側下には新櫓ー太鼓櫓ー多聞櫓をL字状に繋いだ馬出空間が設けられ二の丸に繋がっています。二の丸の規模は東西70m×南北60mほど、 内部に藩主邸 「二の丸御殿」が建てられていました。二の丸の中央北側には十三間多聞ー大手門が構築されています。また本丸の北東側下に吉野口郭が、北西側下に壺阪口郭と呼ばれる広い平場が設けられ、往時 ここには家臣団の屋敷地が置かれていたようです。大手筋は北西麓の上子嶋からのルートが想定され、谷口の黒門(一の門)ー二の門ー三の門ー矢場門ー松の門ー宇陀門ー千早門を経て大手門に繋がる過酷な登山路になっています。なお虎口の大部分は食い違い虎口・桝形構造になっています。また大手筋のほかに城中枢の南東部に吉野口門が、南西部に壺阪口門が設けられていました。高取城の特徴は山頂稜線を利用した巨大な山城でありながら、中枢部はほぼ100% 総石垣で構築された近世城郭になっていること。そして山上に家臣団の屋敷地を設けていたことでしょう。また山城ではレアな水濠を設けていること。いずれにしても高取城は中世の土の城を 近世初頭に総石垣と最新の城郭パーツを駆使して改修し、現在の形態にグレードアップしたものと推測されます。

 高取城は鎌倉末期の元弘2(正慶元 1332)年、大和の有力国衆 越智邦澄により越智氏の本城 越智城貝吹山城の支城として築かれたと伝えられます。越智氏の出自については伊予越智氏、河野氏、橘氏、大和源氏等を祖とする説があり明確ではありませんが、南北朝期頃には大和盆地南部を地盤とする在地の武士集団 「散在党」「越智党」)を組織化する大和の有力国衆に成長していました。南北朝期、越智氏は南朝勢力として行動し、明徳3(1392)年の「南北朝合一」後 足利幕府の支配下に組み込まれました。しかしこの頃から大和国中では大和一国を支配した興福寺の勢力が衰退し、代わって大和武士団が勃興して北部は筒井氏を、南部は越智氏を棟梁とした武士団が誕生し、両派はことあるごとに対峙しました。永享元(1429)年、興福寺大乗院宗徒の豊田氏と興福寺一条院宗徒の井戸氏の対立から「大和永享の乱」が勃発すると、越智氏は豊田氏を支援し また筒井氏は井戸氏を支援して、乱は大和国内を二分する大乱に発展しました。そして越智氏は河内国守護職 畠山満家を、筒井氏は幕府管領 細川持之を乱に引き込み内乱は長期化しました。その後、内乱は一進一退を続けましたが、永享7(1435)年 「多武峯の戦」「越智党」は壊滅的な敗北を喫し、さらに永享11(1439)年 幕府軍の討伐を受けた越智維通が討死して乱は終結しました。そして越智家の家督は一族の楢原氏が継承しましたが、嘉吉3(1441)年 「嘉吉の乱」の混乱に乗じて河内国守護職 畠山持国の支援を受けた維通の遺児 春童丸(後の弾正忠家栄(いえひで))は楢原氏を駆逐して越智氏の家督を奪還しました。同年、筒井氏内部で内訌が勃発すると家栄は惣領 筒井順弘を支援して内訌に介入し、大和の有力国人と認識されました。康正元(1455)年、畠山持国が死去し畠山家中に内訌が勃発すると、家栄は持国の子 義就方に加担し、また甥の政久・政長方には筒井光宣・順永兄弟が加担して、ふたたび大和国内を二分する内乱に発展し、「応仁の乱」(応仁元 1467年 ~ ) の一因のひとつとなります。文明9(1477)年、畠山義就が畠山政長の領国 河内に侵攻し制圧すると、大和では家栄が政長派の筒井順尊(順永の嫡子)、十市遠清・遠相父子、箸尾為国等の国人衆を駆逐して大和を制圧しました。そして家栄は義就の死去後も義就の嫡子 義豊(基家)に近侍します。明応2(1493)年、畠山義豊が幕府管領 細川政元と結んで将軍 義稙を捕縛し、政長を自刃に追い込み(「明応の政変」) 幕政の中枢に座ると、家栄も上洛して幕政に参画しました。同6(1497)年、義豊の家臣団内部で内紛が勃発すると、畠山尚順(政長の嫡子)はこれを好機と捉えて挙兵し 義豊を河内から山城に追い落とします。そして大和国では尚順派の筒井良舜坊順賢(順尊の嫡子)、十市遠治らが蜂起して家栄・家令(いえのり)父子を吉野へ追い落としました。しかし翌年、家栄・家令父子は高取に復帰し、永正2(1505)年 家令はそれまで敵対していた「筒井党」と和議を結んで「大和国人一揆」を組織化しました。そして翌3(1506)年、これに危機感をもった管領 細川政元は腹心の赤沢朝経を大和に派遣して大和国人衆と対峙させます。そしてこの戦闘中に家令は討死したと伝えられ、家令のあとは嫡子の弾正忠家教が継承しました。しかし永正5(1508)年、大和に影響力を持つ細川氏と畠山氏の内部で内紛が勃発し、家教は細川澄元・畠山義英派に加担し、筒井順賢、十市氏は細川高国、畠山尚順派に加担したため大和の「国人一揆」は瓦解しました。その後、家教は「筒井党」との(いくさ)に勝利しましたが、同14(1517)年 死去し、家教のあとは嫡子の民部少輔家栄が継ぎ、その跡は民部少輔家広が継ぎ、家広の代に越智氏は筒井氏と和睦しました。天文元(1532)年、河内を制圧した一向一揆勢力は、さらに大和に侵攻して南都を掌握します。このため興福寺の堂衆僧兵は越智家広に庇護を求め、高取城は一向衆徒と対峙します。そしてこの際、越智方に筒井・十市氏が支援に入り、一向衆を撃破しました。(「大和 天文の錯乱」) 永禄12(1569)年、家広の跡は家広の次弟 楢原氏の子 民部少輔家高が継ぎましたが、元亀2(1571)年 家高は叔父の伊予守家増(家広の三弟)に謀殺され、家増が越智家の家督を強奪しました。そして天正5(1577)年、家増が死去すると 越智家の家督は一族の布施氏から玄番頭家秀が入嗣して継ぎましたが、この間の元亀2(1571)年 筒井陽舜房順慶が織田信長に拝謁しており、越智家増、家秀もまたこの頃、信長に拝謁して所領を安堵されたものと思われます。天正5(1577)年、松永久秀の謀反を鎮圧して大和を平定した信長は、同8(1580)年 筒井氏の拠点 郡山城を残して大和国内の諸城の破却を命じます。このため越智氏の拠点 高取城貝吹山城は破却されました。同10(1582)年の「本能寺」後、家秀は羽柴秀吉に近侍して越智家の存続を図りましたが、翌11(1583)年 筒井順慶に通じた内衆に暗殺され越智家は断絶しました。同12(1584)年、順慶は高取城を要害としてふたたび取り立て整備します。しかし同年、順慶は「小牧長久手の戦」に病気をおして参陣し、この無理がたたって死去しました。順慶の跡は養子の伊賀守定次が継ぎましたが、同13(1585)年 定次は伊賀国上野への転封を命ぜられ、代わって大和へは秀吉の弟 大納言秀長が入封しました。そして秀長は郡山城を居城とし、高取城には与力の脇坂中務少輔安治が据えました。同年、安治が淡路国洲本へ転封になると 代わって高取城には秀長の重臣 本多利久が配され、この本多時代に高取城は近世城郭へと大きく変貌したとされます。そして利久の跡を継いだ因幡守俊政は慶長5(1600)年の「関ヶ原」で東軍に加担し、戦後 加増を受けて高取藩を立藩します。しかし俊政の跡を継いだ嫡子の因幡守政虎は寛永14(1637)年、嗣子なく死去したため 高取本多藩は断絶しました。その後、高取城には大和国新庄藩主 桑山一玄、丹波国園部藩主 小出吉親が城番を命ぜられ、同17(1640)年 幕府の譜代旗本 植村志摩守家政が新たな城主として高取城に入城しました。そして植村氏が江戸期を通じて高取城に拠し、十四代 出羽守家壷(いえひろ)の代に「明治維新」を迎えました。明治6(1873)年、明治政府太政官から発令された太政官達 「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」により廃城。建物の一部は民間、寺院等に売却払い下げられました。昭和28(1953)年、国の史跡に指定。
歴史・沿革
高取城 大手門
メモ
中世 ー 大和の国人 「大和四家」 越智氏の「要害」
近世 ー 大和高取藩の藩庁
形態
山城
別名
芙蓉城・鷹取城・高取山城
遺構
郭(平場)・土塁・天守台・櫓台・多聞櫓台・虎口 門・桝形・移築城門・石垣・井戸・水堀
場所
場所はココです
駐車場
専用駐車場あり
訪城日
平成29(2017)年4月18日
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管理人は実は30数年前、4年間 奈良に住んでいまして、でっ この頃 年2回(春・秋)は高取城に登っていました。っということで、30数年ぶりに登る高取城へのスタートは当時と同じく近鉄壺阪山駅になります。(写真左上ー北西麓(下子島)からの遠景 写真右上ー近鉄壺阪山駅) でっ、最初に訪れたのが壺阪山駅に近い子嶋寺で ここの山門は維新後 高取城の二の門を移築したものです。(写真左) 二の門を見学後、管理人は高取城を目指してメインストリート「土佐街道」を南下しました。(写真左下・右下)
下屋敷門(写真左上) 江戸末期に城下に移された藩主下屋敷の表門。
松の門(写真右上) 明治25(1892)年に創立された土佐小学校の校門として移築された城門。
田塩家長屋門(写真右) 田塩家は高取藩士。長屋門は横格子の与力窓を二つ付け、両袖に監視所と馬屋をもつ堅固な表門遺構です。
植村家長屋門(写真左下・右下) 植村家長屋門は高取藩の筆頭家老 中谷家の表門として文政9(1826)年に竣工されたもの。
上子嶋から大手筋は沢に沿って登るように設定され、谷口に高取城一の門(黒門)が構えられていました。(写真左上) でっ、黒門をすぎ しばらく進むと植村家の菩提寺 宗泉寺があります。(写真右上ー本堂) 宗泉寺境内にはもともと植村家政時代の藩主邸宅が構えられていたようです。でっ、宗泉寺からの大手筋は谷筋に沿って設けられ(写真左・左下)、途中には立派な城址碑が建てられています。(写真右下)
 
七曲り(写真左上・右上) 急斜面を登るために何度も折り曲げたクネクネ登城路。
一升坂(写真右) 長く急な直線の登城路。名称は高取城築城の際、急坂のため石材を運搬する人夫に米一升を加増したことに由来。
岩屋不動(写真左下) 大手登城路から外れた場所にあります。案内杭あり。
猿石(写真右下) 黒門からの大手道と栢森 岡門口からの登城路が合流する箇所にある古代の石像。
水濠(写真左上) 山城では類例の少ない遺構。幅15-20mほど、東縁に堀留を構築して留水し、堀留部分で水量調整していたようです。
二の門(写真右上) 城中枢部への入口。門は城下 子嶋寺に移築されています。導線沿いには崩れ落ちた石垣が各所に散見できます。(写真左)
国見櫓(写真左下) 高取城の北西端に位置し、奈良盆地を一望にできることから国見櫓と呼ばれたようです。(写真右下) 櫓は二層櫓とされます。
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矢場門(写真左上・右上・右ー基壇石垣)
スロープ状の二折れ食い違い虎口になっています。でっ、矢場門を過ぎた導線はその後、郭間を通る堀底道になります。(写真左下)
松の門(写真右下)
スロープ状のシンプルな平虎口になっていますが、導線には上位郭から横矢がかかる構造になっています。なお松の門は城下 上土佐の児童公園に復元されています。
(写真左上) 松の門
宇陀門(写真右上・左) スロープ状の二折れ食い違い虎口。往時、基壇の石垣上に宇陀櫓・到着櫓が構えられていたようです。また門内部に普請小屋があったようです。
城代屋敷石垣(写真左下) この部分から三の丸になるようです。でっ、石垣の延長線に食い違い虎口の千早門が構えられています。(写真右下)
(写真左上) 千早門
大手門(写真右上・右) 本丸・二の丸に繋がる唯一の虎口。「御成門」とも呼ばれる巨大な桝形構造になっています。内部は二の丸の下段にあたり、石垣上に竹櫓が構えられていました。 
二の丸十三間多聞(写真左下・右下) 二の丸下段から上段に繋がる小型の桝形虎口。
二の丸(写真左上) 規模は東西70m×南北60mほど、周囲は打ち込みハギの高石垣で構築されています。(写真右上ー西側の石垣) でっ、往時 内部には藩主邸「二の丸御殿」が建てられ、玄関・御書院・大広間・湯殿・井炉裏間・廊下・雪隠等が設けられていました。また南西端に客人櫓が構えられていました。(写真左) でっ、二の丸に面した石垣上には二層の太鼓櫓と新櫓の二基が構えられ(写真左下ー太鼓櫓台石垣)、二の丸からの導線は十五間多聞に繋がっています。(写真右下)
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(写真左上) 十五間多聞
(写真右上) 新櫓台・太鼓櫓台
櫓台に囲まれた空間は本丸の馬出として機能していたと思われます。
(写真右) 太鼓櫓台・十五間多聞
(写真左下) 太鼓櫓台
(写真右下) 新櫓台
台上には新櫓の礎石が残存しています。
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本丸の周囲は打ち込みハギの高さ8-12mの高石垣で構築され、隅部は算木積みで加工されています。(写真左上ー西側の石垣 写真右上ー大天守台の石垣 写真左ー東側の石垣) でっ、本丸の虎口は北側中央に設けられ、導線はコ状に設定されています。(写真左下・右下)
(写真左上・右上) 本丸へのコ状導線
本丸(写真右・左下)
規模は東西75m×南北65mほど、内部は北西端の大天守(三層)と具足櫓(二層)、南西端の小天守(三層)、北東端の鉛櫓(三層)、南東端の煙硝櫓(三層)を多聞櫓で繋ぐ「連立式天守」構造になっていました。(写真右下ー南側の多聞櫓の基壇) また内部の中央西端には「本丸御殿」(本丸大広間)が建てられていたようです。
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(写真左上・右上) 大天守台、内部は穴蔵構造になっています。
 
(写真左) 壺阪口中門
 
ー 動画 高取城を歩く ー