高 槻 城
大阪府高槻市城内町、野見町、大手町
立地・構造
 高槻城は大阪平野の北東部、淀川右岸の微高地に築かれた平城です。規模は東西550m×南北650mほど、城縄張りは周囲を三重の濠で囲った輪郭構造で構築されていたようです。現在、城址は都市化により消滅していますが、本丸・二ノ丸部分は城址公園として整備されています。(遺構はありません) また外郭ラインは現在も道形として残っています。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には平安中期の正暦

高槻城 概念図
年間(990ー995年)頃、近藤忠範がこの地に居館を構えたことが高槻城の初源とされます。その後の南北朝期、駿河国入江荘の地頭 入江駿河守春則が足利尊氏の命により高槻城に据えられたと伝えられます。そして入江氏は摂津国守護職 細川氏に仕える この地の有力国人となり、天文18(1549)年 細川氏綱と細川晴元が対峙した際には駿河守春正・左近将監元秀父子は氏綱方に加担しています。その後、天文末期 管領 細川京兆家が没落し、天文22(1553)年 摂津国守護代 三好長慶が芥川山城に入城すると入江元秀は三好の勢力下に組み込まれ、高槻城芥川山城の支城となりました。永禄11(1568)年、織田信長が足利義昭の奉じて上洛を果たすと、元秀は義昭に拝謁して所領の安堵を受けます。しかし翌12(1569)年、三好党が信長の留守中 義昭の宿所 本圀寺を襲撃し、この際 元秀が三好党に与したため高槻城は織田勢の攻撃を受けて落城、元秀は自害しました。戦後、高槻城芥川山城主 和田弾正忠惟政に宛がわれ、惟政は高槻城を本城とし改修を施しました。しかし元亀2(1571)年、惟政は池田城主 池田民部少輔勝正に敗れて討死し(「白井河原の戦」)、さらにあとを継いだ伝右衛門尉惟長は天正元(1573)年、被官の高山図書友照・右近重友父子に高槻城を追われました。そして友照・右近父子は高槻城を本城とし城の改修を施しました。天正6(1578)年、有岡城主 荒木信濃守村重が織田信長に叛旗を翻します。このため村重の与力衆をつとめる高山家中は村重派と織田派に分裂しましたが、右近は領地を信長に返上することで荒木・織田との戦いを回避しました。そして戦後、右近はふたたび芥川の所領を給され高槻城に入城しました。天正10(1582)年、「本能寺の変」が勃発すると右近は明智光秀の誘いを断り、羽柴秀吉方に加担し、「山崎の戦」で羽柴勢の先鋒をつとめています。天正13(1585)年、右近が播磨国船上城に移封されると芥川領は秀吉直轄領となり高槻城には代官が配されました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、高槻領は徳川の直轄地となり代官が据えられましたが、「大阪の陣」後の元和元(1615)年 内藤紀伊守信正が近江国長浜から、元和3(1617)年に土岐山城守定義が下総国守谷から高槻城に入城し、この頃 高槻城は三重の濠を巡らした近世城郭に改修されたものと思われます。その後、高槻城には元和5(1619)年に松平(形原)紀伊守家信が、寛永12(1635)年に播磨国龍野から岡部美濃守宣勝が、寛永17(1640)年に下総国佐倉から松平若狭守康信が入城し、慶安2(1649)年 永井日向守直清が山城国勝竜寺から入城以降 永井氏が「明治維新」まで高槻城に在城しました。明治4(1871)年、「廃藩置県」により廃城。
歴史・沿革
高槻城 移築唐門
メモ
中世 ー 摂津芥川の在地領主 入江氏・和田氏・高山氏の館城
近世 ー 高槻藩の藩庁
形態
平城
別名
久米路山龍ヶ城・入江城
遺構
移築唐門
場所
場所はココです
駐車場
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訪城日
令和3(2021)年9月17日
高槻城は現在、都市化により遺構は消滅していますが、外郭ラインには往時の道形が見られます。(写真左上ー南塁線 写真右上ー東塁線) でっ、城外から城内に繋がる虎口は北ー東ー南の3ヶ所に設けられ、東虎口が大手口だったようです。(写真左ー北虎口周辺 写真左下ー南虎口周辺 写真右下ー東大手) なお虎口は すべて桝形構造だったようです。
本丸・二ノ丸部分は城址公園として整備されていますが、遺構等はなにもありません。(写真左上・右上) なお往時、本丸の南西隅に三重の天守が、二ノ丸に二ノ丸御殿が構えられていたようです。
(写真右) 高山右近像
(写真左下) 野見神社 平安中期の仁和ー寛平年間(885−898年)に創建された式内社。高槻城の守護所として崇拝を受けていました。なお境内にある唐門は高槻城からの移築と伝えられます。