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大釜八幡館は雫石川の北岸、鳥泊山(標高389m)から南方向に張り出した稜線突端(通称 八幡館山標高245m 比高90m)に築かれた山城で、北側の稜線鞍部を仕切って城域としています。城の規模は東西150m×南北120mほど、城縄張りは頂部に構築された主郭を中心に東・南側に延びた稜線と南東側斜面に郭が展開され、南ー東方向を意識した構造になっています。主郭の規模は東西30m×南北2 |

現地説明板の図 |
0mほど、主郭の東ー南ー西側をカバーする郭は幅5−6mほど、2−3mの段差で数段にわたり構築され防衛ラインとなっています。規模は小さく基本的に物見砦として利用されていたと推測されます。また館山の南東麓の微高地に日常居館と想定される大釜館が築かれており、大手は南東麓からのルートが想定されます。
築城時期・築城主体ともに不明。一説に古代陸奥の俘囚長 安倍氏に関連した城砦とも。館主は多田系和賀氏の庶流 大釜氏と伝えられ、室町ー戦国期 高水寺斯波氏の支配下あった在地地侍だったようです。 天文年間(1532−55年)、三戸南部氏が岩手郡に南下すると高水寺城主 斯波兵部大輔詮高は天文14(1545)年頃、南部氏に備えて次男の詮貞を雫石に配したとされ、この際 大釜八幡館は詮貞の支配下に置かれたと思われます。天正年間(1573−92年)の館主は大釜薩摩守政幸と伝えられ、天正14(1586)年 南部信直の「高水寺斯波攻略」が顕在化すると斯波氏に叛いて南部に内応したとされます。 |
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高水寺斯波氏の被官 大釜氏の「要害」 |
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山城 |
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大釜館・高館 |
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郭(平場)・堀 |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成21(2009)年10月28日 |
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大釜八幡館は雫石川北岸の通称 八幡館山に築かれた山城で、南東麓の居館部と合わせて大釜館と称されます。(写真左ー本サイトは山頂要害を大釜八幡館、山麓居館を大釜館と便宜上 分けています) 現在、主郭に送電塔が建てられ、このため南東麓から保守点検路が設けられており楽に登ることができます。(写真左下・中下) でっ、点検路沿いはキッチリ下草が刈られ登りやすいです。(写真右下) |
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南東側斜面に構築された二重堀は主郭側斜面を高さ6−7mの切岸で確保した大規模なものです。(写真右) でっ、二重堀の上部は数段の段郭群に加工され、主郭に繋がっています。(写真左下) 段郭の規模は幅5−6mほど。 |
主郭(写真右下) 規模は東西30m×南北20mほど、規模は小さく、籠城用の郭とは想定できず、物見砦として利用されたのでは?。でっ、眺望はすこぶるスバラシイです。 |
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ー 大 釜 館 ー
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八幡館山の南東麓に築かれた大釜氏の日常居館とされ、周囲より5−6mほど高い独立小丘陵に位置します。(写真左上・右上) 規模は東西50m×南北60mほど、土塁と堀(濠)で囲った方形館と推測されますが、遺構等は皆無。現在、内部は八幡宮境内になっていて
一部改変されているようです。(写真左)(場所はココです) |
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