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田子城は田子川の右岸、比高30mの丘陵上に築かれた平山城で、大きくは堀で分断された牛尾館(前館)と佐々木館の2郭からなります。城の規模は東西220m×南北130mほど、城は背後(南側)の丘陵部を堀(自然の谷?)で遮断し、北から東側は段丘崖で区画されていたと思われます。また牛尾館内部も堀で東西に分断された小館・大館からなっていたようです。主郭に想定される大館の規模は東西140m×南北50m、小館は50m×南北15−30mほど。同地は鹿角郡から糠部郡に繋がる「鹿角街 |
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道」を扼する高所に位置します。
築城時期・築城主体ともに不明。.城主は三戸南部氏が糠部郡に入部した際、家臣となった在地発生の開発領主 佐々木氏と伝えられますが、佐々木氏の詳細な事績は不明。『南部史要』によると大永年間(1521−28年)頃、南部政康の次男(一説には南部安信の庶子とも) 南部左衛門尉高信が津軽、鹿角への抑えとして田子城に入城し、「津軽郡代」として石川城に移るまで居住したと伝えられます。南部家の『館持支配帳』には「一、田子前館 三百石 信直公御部屋住」「一、田子館 弐百石 佐々木惣左衛門」と記され、天正期 前館には田子信直が、佐々木館には佐々木惣左衛門が居住していたとされます。永禄10(1567)年、檜山城主 安東愛季が鹿角に侵攻した際、信直は田子から来満峠を越えて大湯に出陣して安東軍と対峙しています。天正10(1582)年、信直は南部宗家の家督を継承して三戸城に移り、この際 田子城は廃城になったものと思われます。 |
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三戸南部氏の津軽、鹿角への兵站拠点 |
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牛尾館 |
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平山城 |
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堀 |
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場所はココです |
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田子中学校の駐車場借用 |
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平成20(2008)年10月3日 |
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田子城は三戸から鹿角・津軽に繋がる「鹿角街道」が通る田子地区の丘陵上に築かれた平山城で、西から北⇒東側を流れる相米川と田子川を自然の濠としています。(写真左上・右上) 内部は大きくは牛尾館・佐々木館の2郭からなり、背後の丘陵部とは堀(自然の谷?)で分断されていたと思われますが、田子中学校の校地となり遺構は消滅。でっ、主郭と思われる牛尾館は中学校校地(写真左)に、佐々木館は一般の宅地になっています。(写真左下 写真右下ー城址碑) |
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(写真左上) 牛尾館・佐々木館間の堀
現在は田子中学校の通学路になっていて、相当 改変されているようです。 |
(写真右上) 田子城から三戸方向を見たところ。眼下に田子市街地が、遠く名久井岳が眺望できます。 |
(写真右) 「鹿角街道」の碑
「鹿角街道」は三戸南部氏が鹿角・津軽に出陣した際、使用した南部軍道です。 |
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