棚 倉 城
福島県東白河郡棚倉町棚倉字城跡
立地・構造
 棚倉城は久慈川左岸の低段丘上に築かれた平城です。城縄張りは本丸を中心に本丸を囲いこむように二の丸が敷設され、二の丸の北側に三の丸が配置された変則的な梯郭構造で構築され、規模は東西300m×南北400mほど。本丸の規模は東西110m×南北170mほど、周囲は幅25−30mの濠と幅7−8m×高さ5−6mの土塁で囲まれ、北西、南西、北東端の3ヶ所に隅櫓が構えられていました。虎口は北側中央と南東隅に設けられ、南東隅の虎口が大手(追手)口とされます。虎口はともに桝形構造で構築されていますが、追手門は外桝形、北門は内桝形で構築され、それぞれ土橋で二の丸に繋がっていました。二の丸も周囲を外濠で囲まれ、北ー東ー南側に虎口が設けられていました。このうち東門が大手表門とされ、門から東方向に進むと棚倉街道に繋がっていました。現在、本丸は公園として整備され比較的 遺構は良好な状態で残存していますが、二の丸・三の丸は宅地化により遺構は消滅しています。

 元和8(1622)年、常陸国古渡から棚倉に入封した丹羽加賀守長重は、入封当初 赤館を拠点と

現地説明板の図
していましたが、赤館が狭く また山城で不便だったため、平野部に新たな城(棚倉城)を築くことを幕府に願い出、許可が下った寛永2(1625)年 棚倉城の築城が開始されました。そして同4(1627)年、棚倉城は竣工されましたが、長重が陸奥国白河に転封となったため、代わって摂津国高槻から徳川譜代の内藤豊前守信照が棚倉城に入城しました。その後、棚倉城には宝永2(1705)年 太田備中守資晴が、享保13(1728)年 松平(越智)右近衛将監武元が、延亨3(1746)年 小笠原能登守長恭が、天保7(1836)年 井上河内守正甫が、慶応2(1866)年 阿部美作守正静が入城し、明治4(1871)年の阿部正功の代に「廃藩置県」により廃城となりました。なお「戊辰の役」の際、棚倉藩は「奥羽列藩同盟」に加担したため、慶応4(1868)年 棚倉城は官軍(新政府軍)の攻撃を受けて落城し、阿部正静は降伏しています。
歴史・沿革
棚倉城 本丸北門の桝形
メモ
近世棚倉藩の藩庁
形態
平城
別名
亀ヶ城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・桝形・濠
場所
場所はココです
亀ヶ城公園
駐車場
亀ヶ城公園の駐車場あり
訪城日
平成21(2009)年11月17日
棚倉城は現在、宅地化により二の丸・三の丸が消滅していますが、本丸部分は亀ヶ城公園として整備され、往時の遺構が比較的 良好な状態で残存しています。本丸の周囲を囲った内濠は幅25−30mほど、近世城郭にふさわしい規模になっています。(写真左上ー南側の濠 写真右上ー東側の濠 写真左ー西側の濠) でっ、二の丸から本丸へは北側中央と南東隅に虎口が設けられ、どちらも土橋で二の丸に繋がっています。(写真左下ー南東側の追手土橋) なお二の丸の東側中央に追手門が設けられ棚倉街道に繋がっていたようです。(写真右下)
本丸は現在は公共施設が建てられています。(写真左上) 周囲は下幅7−8m×高さ5−6mの土塁で囲まれ、北西・南西・北東隅に隅櫓が構えられていました。(写真右上ー土塁) でっ、虎口は北・南東側に設けられ、性格のちがう桝形構造になっています。  
本丸北門(写真右) 巨大な内桝形で構築され、一の門に建造物を設けず、二の門に櫓門が構えられていたようです。
本丸追手門(写真左下・右下) 外桝形構造で構築され、一の門・二の門ともに櫓門が構えられていたようです。
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