龍 野 城
兵庫県たつの市(旧竜野市)竜野町上霞城
立地・構造
 龍野城は揖保川下流域の右岸、鶏籠山(標高218m)南麓に築かれた平城で、鶏籠山・的場山(標高392m)から南方向に延びた尾根と揖保川に挟まれた狭小な地域の北端に位置します。規模は東西150m×南北120mほど、本丸のみの単郭構造と推測され、陣屋形式の形態をしていたと思われます。本丸の西ー南側に家臣屋敷地が、さらに南側に城下が構えられていましたが、城を防御する施設等は皆無に等しく、五万三千石の城郭としては貧弱な感じがします。現在、本丸は公園とし
現地リーフレットの所収図
て整備され、本丸御殿、埋門、隅櫓と城壁が復元されています。

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では明応8(1499)年、播磨国守護職 赤松氏の庶流 赤松下野守村秀が鶏籠山に中世山城を築き、南麓に居館を構えたのが初源とされます。天正5(1577)年、織田信長の中国侵攻が開始され、羽柴秀吉が播磨に侵攻すると龍野城主 赤松左兵衛佐広英は戦うことなく開城し、蜂須賀小六正勝の与力衆に組み込まれました。同10(1582)年の「本能寺」後、広英が但馬竹田城に転封になると、龍野城には蜂須賀正勝が入城し、その後 同13(1587)年に福島左衛門大夫正則が、同15(1589)年に木下式部大夫勝俊が、文禄3(1594)年に小出信濃守吉政が城主となりました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、姫路池田藩の支城として荒尾遠江守成房が城代をつとめ、元和3(1617)年 本多甲斐守政朝が、寛永3(1626)年 小笠原信濃守長次が、寛永10(1633)年 岡部美濃守宣勝が、寛永14(1637)年 京極刑部少輔高和が城主となり、万治元(1658)年 京極氏が讃岐丸亀に転封の際 破却されました。しかし寛文12(1672)年、龍野に入封した脇坂中務少輔安政が新たに龍野城を再建したとされます。以後、脇坂氏が「明治維新」まで龍野城に在城し、明治4(1871)年の「廃藩置県」により廃城。
歴史・沿革
龍野城 復元された本丸御殿
メモ
龍野脇坂藩の藩庁
形態
近世平城
遺構
郭(平場)・復元隅櫓・復元御殿・復元城壁・復元城門
場所
場所はココです
駐車場
歴史文化資料館の駐車場借用
訪城日
 昭和60(1985)年9月5日 平成19(2007)年3月29日
龍野城は龍野のランドマーク 鶏籠山の南麓に築かれた平城です。(写真左上) でっ、鶏籠山には赤松氏の中世山城が築かれ、もともと龍野城鶏籠山城の平時の居館として築かれたと伝えられます。現在、城周辺は官庁・学校施設となっていますが、周囲に城壁(写真右上)が、本丸の南西端に隅櫓が復元されています。(写真左) でっ、本丸への大手虎口は南東隅に設けられた埋門で、内部は小規模な桝形構造になっています。(写真左下・右下)
本丸内部には近世城郭のシンボルといってもいい天守は建てられず、御殿が建てられていたようです。現在、本丸御殿が復元されていますが、これも五万三千石の城にしては小さなもので、脇坂氏が何に遠慮をして小規模な城にしたのかは不思議なものです。(写真左上ー御殿 写真右上ー内部)
秋田の中世を歩く