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天童古城は村山盆地の中央東部、独立丘陵 舞鶴山(標高250m 比高140m)に築かれた山城です。城の規模は東西750m×南北900mほど、城縄張りはH状の稜線を加工したシンプルな連郭構造で構築されています。主郭は中央ピークに構築され、規模は東西120m×南 |

現地説明板の図 (下が北方向) |
北30mほど、大手筋は南東麓からのルートが想定されています。全体的に規模は大きく日常居館を兼ねた館城として築かれたものと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。一説に南北朝中期(1346−70年頃)、出羽の南朝勢力に加担した北畠天童丸が天童古城に籠もり北朝勢力(斯波氏)と対峙したと伝わります。後に天童丸は斯波氏と和睦してこの地を離れ、その後 山形城主 斯波兼頼の孫 頼直が天童に入封して天童氏を称したとされます。(一説に頼直は天童里見氏の養子として天童氏に入嗣したとも) そして頼直は庶子家の満長を上山に、頼高を東根に、頼種を鷹ノ巣に分知し、天童氏は戦国初期までに惣領 最上氏に匹敵する勢力に成長しました。永正11(1514)年、最上領に侵攻した伊達左京大夫稙宗は長谷堂城を攻略すると、最上修理大夫義定に妹を嫁がせて最上氏を勢力下に置きます。そして同17(1520)年、義定が嗣子なく死去すると伊達氏は最上家の家政への介入を強め、このため最上家臣団、国衆は伊達への反発を強めました。この際、伊達に頑強に反抗したのが天童氏とされ、天童氏は村山北部の国衆を糾合して「最上八楯」(天童、延沢、飯田、尾花沢、楯岡、長瀞、六田、成生)なる一揆勢力を形成して盟主におさまりました。天文11(1542)年、「天文 伊達の乱」が勃発すると最上修理大夫義守はこれを契機に伊達の支配下から離脱しました。天正2(1574)年、「天正 最上の乱」(最上義守と義光の内訌)が勃発すると天童和泉守頼貞は谷地城主 白鳥長久、蔵増城主 蔵増頼真、延沢城主 延沢満延等とともに義守方に加担し義光派の寒河江城を攻撃します。しかし内訌は義光に有利な条件で和議が成立し、乱後 家督を継いだ義光は領国化を推進して最上の権力強化に動きました。このため天童頼貞は「最上八楯」を擁して義光と対峙し、天正5(1577)年 天童城を攻撃した最上勢を撃退します。しかし同12(1584)年、「最上八楯」を調略した最上義光は同年 ふたたび天童城を攻撃し、このため天童頼澄は天童城から逐電して天童城は陥落しました。天童古城はその後、ほどなく廃城になったものと思われます。 |
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「最上八楯」 最上氏の庶子家 天童氏の館城 |
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山城 |
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舞鶴城 |
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郭(平場)・櫓台・井戸祉 |
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場所はココです |
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天童公園駐車場 |
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平成18(2006)年9月22日 |
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天童古城は天童市街地の中央部、通称 舞鶴山に築かれた山城で、現在 天童公園になっています。(写真左上ー南側からの遠景) でっ、城山は西側の丘陵部が公園整備されていて、往時の遺構はなく、東側の丘陵ピークが主郭部になります。(写真右上) でっ、西側の公園から主郭へは遊歩道が整備され(写真左下)、公園化している部分もな 〜〜〜 んとなく郭の雰囲気が認められます。(写真右下) |
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登り口から主郭間の高低差は50mほど、この間 遊歩道はなだらかな稜線に設けられ、いくつかの段、郭が見られます。(写真左上) |
主郭(写真右上) 規模は東西120m×南北30mほど、北・南側は急傾斜の断崖になっていて、北東端に高さ2−2.5mの櫓台が築かれています。(写真右)
また東端に天童古城落城後、最上義光により創建された愛宕神社が祀られています。(写真左下) |
仏向寺(写真右下) 舞鶴山の西麓にある浄土宗寺院。戦国期 「最上八楯」に加担した僧兵を擁していました。 |
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