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日向館は富岡川下流域の右岸、西から東方向に張り出した低丘陵先端(比高15−20m)に築かれた平山城で、城の周囲を迂回するように流れる根小屋川を自然の濠とし、西側の丘陵続きの狭まった部分を掘り切って城域を区画していたと推測されます。規模は東西200m×南北200mほど、内部は段差で区画された主郭・二の郭の2郭からなり、先端に腰郭が1段 敷設されていました。
築城時期・築城主体・館主ともに不明。『双葉郡郷土誌』によると永正年間(1504−20年)頃、岩城下総守常隆の子 九郎隆時が相馬氏に対する抑えとして富岡に配されて日向館を築き、隆時は「富岡殿」と呼ばれました。天文3(1534)年、岩城左京大夫重隆の娘 久保姫の婚姻をめぐり、岩城・白河結城氏と伊達・相馬・二階堂・石川氏が対立すると、相馬讃岐守顕胤は岩城領に侵攻して久の浜ー四ッ倉まで制圧しました。その後、和睦により広野以南は岩城氏に返還されましたが、富岡、楢葉は相馬領となり日向館も相馬氏の属城になったものと思われます。しかし元亀元(1570)年、相馬弾正大弼盛胤、長門守義胤父子が伊具郡丸森に出陣した隙に、岩城左京大夫親隆は楢葉郡に侵攻して富岡、木戸を奪還しました。その後、日向館は慶長5(1600)年、岩城氏の改易により廃城になったものと思われます。 |