富 田 林 寺 内 町
大阪府富田林市富田林町
 富田林寺内町は大阪平野の南東部、石川中流域の左岸段丘上に築かれた計画都市です。規模は東西400m×南北350mほど、町の周囲は土居(土塁)で囲郭され、内部は東西に七筋、南北に六筋の碁盤目の街路により区画され「六筋七町」と呼ばれています。寺内町は永禄年間(1558-70年)初期、京の興正寺16世 証秀上人が河内国守護職 畠山氏の被官 安見美作守宗房から「富田の芝地」と呼ばれていた荒地を買い入れ、興正
天保八年 富田林村絵図
寺別院を建立し、周辺四村の庄屋八名(「富田林 八人衆」)とともに興正寺別院を中心に宗教自治都市として開発したしたことを初源とします。元亀年間(1570ー73年)、織田信長が本願寺と対峙した際には信長から「寺内之儀、不可有別条」との書状を得て合戦には介入しませんでした。江戸期、幕府の直轄地となった富田林寺内町は物資の集積地として「在郷町」に成長し、河内南部の商業の中心地になりました。また江戸期、この地は綿、菜種など換金作物の栽培が盛んに行われ、農作物を扱う商人があらわれました。明治以降、富田林は南河内の中心として郡役所や警察署が設置されましたが、現在 富田林寺内町は古い町並みが残る地域として国から「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。(場所はココです)
山中田坂 
石川から寺内町に繋がる富田林四口のひとつ。「千早街道」に繋がっています。
堺筋 
橋本家 
18世紀後期に建てられた入母屋造の建築物。かつては「別井屋」を称して酒造業を生業としていました。
木口家 
宝暦3(1753)年に建てられた入母屋造の建築物。古くは「木綿屋」を称し木綿商を営んでいましたが、後に瀬戸物商に転じています。
道標 
宝暦元(1751)年、「東高野街道」の道標として設置されたもの。道標には「左 ふじいでら」「右 まきのお 高野山」と刻まれています。
仲村家 
天明2-3(1782-83)年に建てられた表屋造の建築物。かつては「佐渡屋」を称し酒造業を営んでいました。初代は「富田林 八人衆」のひとり。
旧杉山家 
寛永21(1644)年に建てられた瓦葺き入母屋造の建築物。杉山家は古くは木綿問屋を営んでいましたが、後に酒造業に転じました。初代は「富田林 八人衆」のひとり。明治初期の流行歌に「一に杉山、二に佐渡屋、三に黒さぶ 金が鳴る」と唄われていました。国の重要文化財。
興正寺別院
山門
永禄年間(1558-70年)初期、京の興正寺16世 証秀上人により創建された浄土真宗寺院。富田林寺内町は興正寺別院を中心に開発されました。山門は安政4(1857)年、興正寺の本山より移築された薬医門形式の門。
興正寺別院
本堂
寛永15(1638)年に再建された建築物。
興正寺別院
鼓楼
17世紀後期の建築物で、文化7(1810)年 現在地に移築。
杉田家 
18世紀後期の建築物。杉田家は代々「樽屋」を称し、油屋を営んでいました。
田守家 
18世紀中期の建築物。田守家は「黒山屋」を称し、木綿商を営んでいました。
城之門筋 
寺内町のほぼ中央を南北に縦貫する街路。国の「日本の道100選」に認定。
奥谷家 
19世紀初期に建てられた建造物。奥谷家は代々 「岩瀬屋」を称し、材木商を営んでいました。