横 田 城
岩手県遠野市松崎町光興寺
立地・構造
 横田城は遠野盆地の北西端、猿ヶ石川右岸の河岸段丘先端(比高50m)に築かれた平山城です。城の規模は東西300m×南北200mほど、東・西側に沢が切り込み、北側の丘陵部を堀で遮断して城域を区画しています。内部は階郭を基本とした単調な構造になっていて、北端に設けられた主郭
横田城 概念図
を中心に南側斜面に高い切岸で段郭群が敷設された古い形態の城館になっています。主郭の規模は東西180m×南北100mほど。同地は遠野盆地を北西側から望む高所に位置し、基本的に在地領主の日常居館として築かれたものと推測されます。

 『阿曽沼興廃記』によると横田城「奥州藤原追討」で軍功のあった下野国阿曽沼郷 在住の阿曽沼広綱が戦後 陸奥「遠野郷」に所領を宛がわれ、文治5(1189)年に築いたと伝えられます。また『阿曽沼家乗』によると広綱の嫡子 朝綱が本領の阿曽沼郷を譲られ、次男の親綱が「遠野郷」を譲られ、建保年間(1213−19年) 親綱が遠野に下向して横田城を築き居住したとも。築城時期は判然としませんが、いずれにしても阿曽沼氏が「遠野郷」を支配する拠点として鎌倉初期頃 築かれたものと思われます。(また阿曽沼氏は当初、遠野には下向せず代官の宇夫方氏が支配したと推測され、実際 阿曽沼氏が遠野に下向したのは南北朝期とする説もあります) その後、阿曽沼氏は「遠野郷」に勢力を広げ、領内に庶子家、家臣を配して領国化を推し進めました。そして永享9(1437)年、阿曽沼秀氏の代に気仙の岳波太郎、唐鍬崎四郎兄弟と同族の大槌城主 大槌孫三郎に横田城を攻められましたが、南部守行の救援を受けてこれを撃退し、逆に大槌城を攻撃しています。また戦国末期の阿曽沼広郷の代に支配領域を「遠野十二郷」(田瀬、鱒沢、小友、綾織、宮森、大槌、釜石)にまで拡大して上閉伊郡きっての有力国人に成長し、葛西領の岩谷堂へも侵攻しています。『阿曽沼興廃記』によると天正年間(1573−92年)頃、広郷は新たに鍋倉城(新横田城)を築いて移り住んだとされ、この際 横田城は破却されたものと思われます。
歴史・沿革
横田城 主郭に祀られる薬師堂(護摩堂)
 メモ
遠野阿曽沼氏の館城
 形態
平山城
 別名
 護摩堂城
 遺構
郭(平場)・虎口・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車(空地あり)
訪城日
平成17(2005)年6月22日 平成26(2014)年4月11日
横田城は遠野市街地の北西部、北から南東方向に張り出した舌状台地を利用した平山城です。(写真左上ー南側からの遠景) でっ、城の東・西側に沢が切り込み、往時は湿地帯だったのでしょう。(写真左上ー西側の沢) 城へは南西麓に誘導杭が設置され、散策路が設けられ(写真左)、散策路に沿って空堀状の地形が見られますが、往時の遺構かは不明。(写真左下) でっ、じきに中段の平場にたどり着きます。(写真右下) 中段の平場の規模は東西20−25m×南北100mほど、主郭とは高さ10mの切岸で画されています。
(写真左上) 主郭南側の切岸
(写真右上) 最下段の郭 
主郭(写真右・左下) 規模は東西180m×南北100mほど、南側は低い段差で区画され、中央に薬師堂(護摩堂)が祀られています。(写真左下) でっ、北側に1−1.5mの段で仕切られた幅25−30mの平場が2段構築されています。内部は相当広い平場になっていて、阿曽沼氏の日常居館のほか重臣クラスの役宅も設けられていたのでしょう。
(写真左上) 主郭北側の郭群 
主郭北側の丘陵続きは幅10−15m×深さ6−7mの堀切で遮断され(写真右上)、幅2mの土橋で導線が確保されています。(写真左) ここまではいたってシンプルな構造になっていますが、特殊なのが土橋の東側にも北東方向に延びた土橋?が設けられていること。(写真左下) 土橋?は加工度が低く、稜線を削り込んだ形状になっていて、東側に設けられた竪堀は主郭北側の堀切に繋がっています。(写真右下)
清心尼公の墓
清心尼は根城南部氏十九代当主 直栄の娘で、直栄の弟 直政のあとを継いで二十一代当主になった人物。清心尼の跡目は根城南部氏の一族 新田政広の子 直義が婿養子として入り、直義の代の寛永4(1627)年、根城南部氏は遠野に転封しました。
阿曽沼氏歴代の碑(墓)
横田城の南方800mの高台にあります。阿曽沼氏は十三代 約400年間にわたって「遠野郷」を統治しています。なお中央の五輪塔は室町期のものと伝えられます。(誰の墓碑かは不明)
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