皆 川 城
栃木県栃木市皆川城内町
立地・構造
 皆川城は関東平野の中央北部、永野川右岸の独立丘陵(標高147m 比高80m)に築かれた平山城です。規模は東西500m×南北400mほど、城は丘陵上の「要害」と山麓の日常居館・「根小屋」からなります。山頂部は主郭・西郭(二の郭)からなり、規模は主郭が10−15m四方、西郭が東西120m×南北50mほど、主郭が物見砦、西郭有事の際「避難郭」 皆川城 現地説明板の図
現地説明板の図
想定されます。この中枢郭を囲むように東ー南ー西側斜面に数段の帯郭・段郭群が巻かれ、高い切岸で区画されています。また南西側斜面に帯郭を遮るように長大な竪堀が1条 敷設されています。南麓に設けられた日常居館・「根小屋」は東西300m×南北100mほど、敷地は東ー南ー西側を土塁と濠で方形に区画されていたと想定され、現在 西側縁部に高さ3mの土塁が、南西部に幅5m前後の濠祉が残存しています。また東麓にも外郭が構えられていたと思われます。基本的に「根小屋」「要害」を隣接させた典型的な在地領主の「根小屋式城館」と推測されます。

 平安末期、源頼朝の挙兵に参加した下野の武士団 小山政光は下野国南部に勢力を広げ、次子の淡路守宗政に「長沼荘」を分知します。そして宗政の孫 宗員が寛喜年間(1229−31年)頃、皆川に進出して築いたのが皆川城の初源とされます。しかし宗員から続く皆川氏は元亨3(1323)年、執権 北条高時に叛き断絶されました。応永23(1416)年の「上杉禅宗の乱」に際し、会津南山郷を拠点としていた庶子家の長沼淡路守義秀は鎌倉公方 足利持氏方に加担し、禅宗に横領されていた「長沼荘」を奪還しました。その後、義秀のあとを継いだ淡路守秀宗の代に、鎌倉公方 足利持氏と「関東管領」 上杉憲実の対立が顕在化し、秀宗は永享10(1438)年の「永享の乱」、同12(1440)年の「結城合戦」の際 管領方に参陣しています。そして淡路守氏秀の代に長沼惣領家は会津田島から皆川に拠点を移し、氏秀の嫡子 宮内少輔宗成の代から皆川氏を称するようになりました。大永3(1523)年、鹿沼周辺を制圧した宇都宮城主 宇都宮左馬頭忠綱が皆川領への侵攻を開始すると、宗成は弟の成明とともに宇都宮勢と河原田で対峙し、宇都宮勢を撤退させましたが、宗成・成明兄弟の他 多くの家臣団が討死しました。(「河原田合戦」) 宗成のあとを継いだ嫡子の山城守成勝は天文6(1537)年、芳賀右兵衛尉高経が宇都宮俊綱と対立した際 芳賀方に加担し、また同8(1539)年 那須壱岐守政資、修理太夫高資父子が対立した際 高資を支援して政資方の宇都宮氏を攻撃しています。天文20(1551)年以降、小田原北条氏が北関東への侵攻を推し進め「関東管領」 上杉憲政を越後に追い落とすと、北条氏は関東平野に勢力を着々と扶植し、憲政を支援する越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)と対峙するようになります。この間、皆川氏は両勢力に挟まれ、時期は不明ながら長尾景虎が関東出陣の際の『関東幕注文』「宇都宮衆」として「皆川山城守」の名が見え、また弘治3(1557)年 北条氏政が発した『禁制』に山城守俊宗が佐野氏、小山氏とともに北条氏の支配下にあったことが記されています。永禄7(1564)年、俊宗は北条氏の命により小山氏を攻撃、同9(1566)年 宇都宮氏と武力衝突、さらに常陸小田城攻めに出陣した上杉謙信と会見を行い、北条氏と上杉氏の和睦締結を働きかけています。しかし元亀4(1573)年、俊宗は結城中務大夫氏朝とともに関宿城主 梁田氏を救援するため下総国田井で北条勢と戦いましたが討死しました。俊宗のあとを継いだ山城守広照は佐竹義宣、宇都宮国綱と結んで北条氏直と対峙しましたが、天正13(1585)年 北条方に転じ宇都宮領に侵攻します。同16(1588)年、宇都宮下野守国綱は佐竹義宣の支援を受けて皆川領に侵攻し、皆川氏の神楽岡城、布袋山城の攻略に動きましたが、広照は宇都宮勢に徹底抗戦しました。同18(1590)年、豊臣秀吉の小田原の陣」が開始されると広照は北条氏との関係から小田原城に入城し、竹ノ下口を守備しましたが、早々と上方勢に降伏して所領を安堵されました。しかし、この間 皆川城は上杉景勝、浅野長政軍に攻略され落城、翌19(1591)年 広照は栃木城を新たに築いて拠点を移しました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」の際、広照は東(徳川)軍に加担して佐竹氏の牽制に当たり、同8(1603)年 信濃国川中島に転封した松平忠輝(徳川家康の六男)の後見家老として信濃国飯山に移りました。
歴史・沿革
皆川城 南西側斜面の竪堀
 メモ
下野小山氏の庶流 皆川氏の館城
 形態
平山城
 別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
皆川公民館の駐車場借用
訪城日
平成19(2007)年12月14日
皆川城は皆川地区北側の丘陵上に築かれた平山城です。(写真左上) でっ、皆川城は丘陵上の「要害」と麓に設けられた「根小屋」外郭からなり、東側に外郭ラインとなる()祉がかすかに確認できます。(写真右上) でっ、丘陵の南麓に「根小屋」が想定され、皆川公民館が建てられています。(写真左) 敷地は東ー南ー西側を濠と土塁で方形に区画し、西縁に高さ3mの土塁が(写真左下)、南側に幅5m前後の濠祉が部分的に残存しています。(写真右下)
「根小屋」「要害」の高低差は60mほど(写真左上)、斜面は執拗に帯郭に加工され、郭自体は城道として利用されていたのでしょう。(写真右上) 管理人は南西麓からアプローチしましたが、帯郭の端部に虎口が設けられ、上位の帯郭(堀底道)に繋がるようになっています。(写真右) でっ、数段に敷設された帯郭群は上位郭から監視される構造になっていて、皆川城の防御思想なのでしょう。南側斜面の膨らんだ部分は比較的 規模の大きい平場に加工され、高い切岸で仕切られています。(写真左下・右下)
皆川城の見どころのひとつは南西側斜面に敷設された長大な竪堀でしょう。(写真左上・右上) 規模は幅5−6mほど、途中 クランクして斜面を滑り落ちます。竪堀自体は帯郭間の横移動を遮り、南側斜面への侵入を防ぐもののようです。
西郭(写真左) ピーク西側下の平場で規模は東西120m×南北50mほど、実質的な二の郭に想定され、有事の際「避難郭」なのでしょう。でっ、西側に櫓台状の土壇が築かれています。主郭との比高差は15−20mほど(写真左下)、稜線は段郭群に加工されています。(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は10−15m四方ほど、内部に城址碑が建てられています。西ー南ー東側斜面は段郭群で処理され、西郭からは郭群を迂回して繋がっています。ま 〜〜〜、規模は小さいものの眺望は素晴らしく、南東方向に広大な関東平野が広がっています。(写真右上)
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