柏 崎 館
秋田県鹿角市(旧十和田町)十和田毛馬内字柏崎
立地・構造
 柏崎館は鹿角盆地の中央北寄り、小坂川と大湯川に挟まれ南西方向に張り出した舌状台地先端(比高30m)に築かれた平山城です。城の規模は東西400m×南北250mほど、城縄張りは堀で仕切った連郭構造で構築されています。各郭の規模は本丸が東西130m×南北100m、二の丸が東西150m×南北170m、三の丸が東西80m×南北180mほど。また北西側下に家臣給人屋敷が構えられいました。大手導線は給人屋敷から三の丸北西端に繋がる通称 「大手坂」とされ、その後 導線は二の丸の桝形を経て本丸に繋がっていました。また搦手筋は二の丸の西側中央から北西方向の坂道(通称 「追手坂」)を降るルートとされます。藩政期、本丸に城主の陣屋、役宅が、二の丸に毛馬内代官所、御蔵奉行所、御役屋、御蔵、上級家臣屋敷が、三の丸に家中屋敷が配され、明確なヒエ ラルヒーにより構成されていたと思われます。

現地説明板の図

 柏崎館は慶長12(1607)年、南部藩主 信濃守利直の命により毛馬内政次が築き、毛馬内古館から居を移したとされます。政次は天文年間(1532−55年)、「鹿角代官」として鹿角に入部した南部政康の五男 靭負佐秀範の嫡子で、戦国末期まで毛馬内古館を拠点としていました。寛永19(1642)年、政次が死去し嫡子の靭負佐範氏が毛馬内家の家督を継ぎましたが、範氏が幼少だったため翌20(1643)年、範氏は大湯へ所替となり、代わって政次の次弟 三左衛門直次が大湯から柏崎館に入城しました。明暦3(1657)年、毛馬内九左衛門長次が花輪城代に任ぜられると、柏崎館に閉伊郡から桜庭兵助由之(光英)が所替として入城し、以後 桜庭氏が「明治維新」まで柏崎代官として居住しました。この地は南部領と秋田、津軽藩領との藩境に位置する重要拠点とされ、柏崎館に南部藩の要害屋敷として監視、行政機能があったものと思われます。
歴史・沿革
柏崎城 本丸の虎口
メモ
盛岡南部藩の要害屋敷
形態
平山城
別名
毛馬内新館
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・桝形・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成16(2004)年8月28日 平成19(2007)年5月24日 令和4(2022)年5月17日
柏崎館は鹿角盆地の中央北寄り、毛馬内地区背後の丘陵上に築かれた近世平山城です。(写真左上ー南東側からの遠景 写真右上ー北側からの遠景) 城は南西方向に延びた丘陵を堀で分断して郭に加工した連郭構造で構築され、南から本丸ー二の丸ー三の丸が配置されています。でっ、城の北西麓に家臣給人屋敷が設けられ(写真左)、城へは西端から「大手坂」と呼ばれる大手導線が設けられ(写真左下)、三の丸の南西端に繋がっています。(写真右下) 三の丸の規模は東西80m×南北180mほど。
三の丸二の丸間は堀で仕切られ、桝形構造の導線で繋がっていました。(写真左上)
二の丸(写真右上) 規模は東西150m×南北170mほど、桝形から繋がる二の丸筋は往時のものを踏襲したものと思われます。でっ、藩政期 内部に毛馬内代官所、御蔵奉行所、御役屋、御蔵、上級家臣屋敷等が置かれていました。(写真右ー毛馬内御蔵奉行所祉) また本丸に近い部分に内藤湖南の生家があったようです。(写真左下) なお二の丸の南西端に搦手導線が設けられていました。(写真右下)
本丸・二の丸間は堀で区画され、土橋で繋がっています。でっ、南側の堀は規模の大きい箱堀(写真左上)、北側の堀は「搦手坂」と呼ばれる搦手導線になっていて、導線は土橋にぶつけてクランクさせる桝形構造になっています。(写真右上)
本丸の虎口は土塁で区画された平入れ虎口です。(写真左) でっ、東縁に構築された土塁は下幅6−7m×高さ2−3mほど。(写真左下・右下)
本丸(写真右上・左) 規模は東西130m×南北100mほど、藩政期 「御田屋」と呼ばれ桜庭氏の陣屋、役宅が置かれていたようです。初めて訪城したときは内部に屋敷があったと思うのですが、現在 「毛馬内柏崎館」という施設(資料館?文化施設?)が建てられています。
ー 動画 柏崎館を歩く ー