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高梨館は米代川の中流域、南岸の丘陵突端(比高40m)に築かれた丘城です。規模は東西120m×南北80mほど、南西側の稜線続きを堀で遮断して館を独立させています。主郭の規模は東西80m×南北45mほど、北、南東側に腰郭が設けられ、北腰郭に稲荷神社が祀られています。同地は米代川に沿って鹿角から比内に繋がる基幹街道を扼する高所に位置します。 |

高梨館 概念図 |
築城時期は不明。『鹿角由来集』に「一、高梨子館村 高梨土佐領知 本名秋元 高瀬周防一門子無之絶ル後二奥四朗左衛門糠部郡一戸ヨリ文明年中罷越川原館居申候処 秋田鹿角相戦ニ付高瀬周防下知ニテ明應元歳三月高梨館エ移申候夫ヨリ四朗左衛門高梨宮内ト申候」と記されています。高梨(子)氏は鎌倉中頃、地頭職として鹿角に入部した「鹿角四頭」 鹿角秋元氏の庶子家とされます。しかし文明年間(1469−86年)、高梨氏は嗣子なく断絶し、この地に糠部郡一戸から奥四朗左衛門が入部して川原館に居住しました。そして明応年間(1492−1501年)、秋田(檜山安東か?)と鹿角(三戸南部か?)の抗争が激化すると四朗左衛門は高瀬周防(?)の命により高梨館に移り住み高梨宮内を称したとされます。なお同地に近世、秋田佐竹藩との藩境として盛岡南部藩の「土深井御番所」が置かれていました。 |