有 子 山 城
兵庫県豊岡市(旧出石町)出石町有子山
立地・構造
 有子山城は出石盆地の南端、出石川右岸の有子山(標高321m 比高300m)に築かれた山城です。城の規模は東西450m×南北350mほど、城縄張りは山頂部に構築された主郭・千畳敷を中心に北・北西方向に展開されています。規模は主郭が東西40m×南北25m、千畳敷が東西120m×南北50mほど、両郭は幅15m×深さ7−8mほどの堀切で分断されていますが、両郭で城中枢をなしていたと思われます。大手筋は北西麓からのルートが想定され、導線は竪堀で数ヶ所切られ、また大手筋に対する前衛陣地として中腹に北段郭群が設けられています。導線は北段
現地説明板の図
郭群から北西段郭群に迂回し主郭に繋がっています。城縄張りは段郭を主体としたシンプルな構造になっていますが、自然の要害地形を取り立てて築かれたもので、山頂部を除いて加工度の低いものとなっています。(これでも充分なのでしょう) なお主郭の周囲は「野面積」の石積で構築されています。

 文明5(1472)年、山名左衛門佐持豊(宗全)の急死後、但馬国守護職 山名氏は家中の叛乱や隣国 尼子の侵攻等により領土を侵食され、勢力は急速に衰退し 山名氏は但馬山名と因幡山名に分裂しました。このため享禄元(1528)年、但馬国守護職を継いだ山名右衛門督祐豊(すけとよ)は山名氏の統一を目指しました。そして祐豊は天文17(1548)年、因幡国守護職 山名左馬助誠通(のぶみち)を攻撃して誠通を討死にさせて因幡山名氏を滅ぼすと弟の中務少輔豊定を因幡国守護職に任じました。永禄3(1560)年、豊定が死去すると、祐豊は豊定の子 中務大輔豊国を擁立して対立する因幡山名家の客将 武田三河守高信と対峙し、また同11(1568)年 尼子残党を支援して毛利と対峙しました。同12(1569)年、祐豊は但馬に侵攻した羽柴秀吉率いる織田勢に此隅山城を攻略され泉州堺に逃亡しました。(「第一次但馬侵攻」) しかし祐豊は元亀元(1570)年、織田信長に臣従することを条件に旧領を回復し、新たに有子山城を支配拠点として築きました。但馬を回復した祐豊は尼子勝久・山中鹿之助等とともに毛利と対峙し、同3(1572)年 敵対する武田高信を討死させましたが、天正2(1574)年 織田との約定を反故にして毛利と同盟を結びました。このため同8(1580)年、信長の命を受けた羽柴秀吉が再度 但馬に侵攻し、祐豊は有子山城に籠城しましたが この籠城中に死去し、有子山城は陥落しました。(「第二次但馬侵攻」) その後、有子山城には青木勘兵衛一矩、前野但馬守長泰が城主に任じられましたが、文禄4(1595)年の豊臣秀次の謀反に連座したかどで長泰の嫡子 出雲守景定は切腹を命ぜられ、また長泰は景定助命嘆願後に自決し前野家は断絶となりました。前野氏のあとは小出信濃守吉政が有子山城に入城し、「関ヶ原」後の慶長9(1604)年 吉政の嫡子 大和守吉英が山麓に新たな新城(出石城)を築いたため有子山城は廃されました
歴史・沿革
有子山城 主郭の石垣
メモ
但馬国守護職 山名祐豊が築いた「要害」
形態
山城
別名
高城
遺構
郭(平場)・虎口・石積・堀・土橋
場所
場所はココです
駐車場
出石城観光駐車場(有料)
訪城日
平成18(2006)年3月10日
有子山城は出石市街地を望む有子山に築かれた山城で、北麓に近世出石城があります。(写真左上) でっ、管理人は出石城から登山道に入り痩尾根を登りましたが、傾斜がキツイうえ 雨でヌルヌルして登りずらいこと(写真右上)、途中の尾根は片竪堀で狭められ(写真左)、また急傾斜部分に竪堀で狭めた土橋が敷設されています。(写真左下) でっ、稜線を登り切ると中腹の段郭群に辿り着きます。(写真右下) 段郭群は4−5段構造、大手筋を守備する前衛陣地だったのでしょう。
でっ、導線は北側の段郭群から主郭から北西側に張り出した稜線に廻り込み、ここから西側の段郭群を経て主郭に繋がっています。西側の段郭群は最大7−8mの切岸で区画された5−6段の郭群で、側面に一部 石積が見られます。(写真左上ー西段郭群 写真右上ー西段郭群に見られる石積) でっ、ヘロヘロになりながら主郭に辿り着きました。(写真右)

主郭(写真右上) 規模は東西40m×南北25mほど、北ー西側側面に石積が残存し(写真左下)、虎口は西側南寄りに設けられています。(写真左) 南縁に低いながら土塁が築かれ(写真右下)、石積は前野氏時代の改修と推測されます。なお主郭から出石城下はこんな感じで見えます。
主郭・千畳敷間を分断した堀切は幅15m×深さ7−8mほど。(写真上) 訪城した日に重機が入っていましたが、重機と比べると堀切の大きさがわかります。 
千畳敷(写真右) 規模は東西120m×南北50mほど。有子山城で最も広大な平場で、有事の際「逃げ込み郭」「上屋敷」と推測されます。周囲は急峻な切岸に加工され(写真左下)、北側下に腰郭らしき小郭が確認できます。(写真右下)
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