でっ、約30分ほどで北側尾根に辿り着きましたが、場所がイマイチわからなかったため、場所を明確にするため北側尾根を若干 降りました。(写真右)
でっ、降りた尾根筋に前後を切岸で削崖された平場が見られます。(写真左下ー中郭群) 郭の規模は東西10m×南北45mほど、北側に小規模な腰郭を1段 敷設し、さらに前面は高さ7−8mの切り落とした切岸で処理して北側からの導線を切岸の側面から東側に廻り込むように設定されています。(写真右下) |
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さらに中郭群の下段には明確な虎口が見られ(写真左上)、虎口から尾根筋を下るとグニャリと折り曲げられた土橋が現れます。(写真右上) でっ、土橋の側面はV字状の竪堀で処理され(写真左)、土橋から中郭群までの導線は大手筋を防御する強力・堅固な防衛ラインになっています。実は土橋からさらに北側の尾根筋には土塁囲いの郭等の遺構があるようですが、・・・・・
下山してから気がつきました。残念!! |
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楽々前城の見どころのひとつが中郭群の西側斜面に敷設された畝状竪堀群でしょう。条数は少ないのですが、畝の規模は高さ3m前後と大規模なもので(写真左上)、竪堀(写真右上)も急斜面をスパッと滑り落ちています。 |
中郭群を過ぎると導線は急斜面を一気に登るように設定され、急斜面に敷設された北郭群の東側側面を通ります。北郭群は3段からなり、規模は東西30m×南北20mと比較的規模の大きい平場になっています。(写真右) 郭間は7−8mと高い切岸で区画され(写真左下)、下部に部分的に石積が見られます。(写真右下) |
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城中枢は主郭を取り囲むように削平された高低差のある郭群からなり、このうち北ー西側をカバーした平場が最も規模が大きいようです。(写真左上) 規模は東西90m×南北40−50mほど、内部は1.5m前後の段で区画され、段差部分に石積が見られ(写真右上)、また石積で構築された仕切り土塁も見られます。(写真左)
でっ、主郭へは北側下から導線が敷設され、主郭下の腰郭に繋がっています。(写真左下) 腰郭の規模は東西20m×南北10mほど、内部に相当量の石塁が崩落しています。(写真右下) |
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主郭の東下には腰郭が1段 敷設され(写真右上)、腰郭の北西ー北ー東側をカバーするように幅10−15mの帯郭が敷設されています。(写真右) さらに尾根筋は4−5段の段郭群で処理されているようです。(未確認)
なお帯郭の東部に井戸祉と思われる窪地が見られます。(写真左下) |
主郭(写真右下) 規模は東西50m×南北20mほど、恒常的な居住性はありませんが、最終的な詰郭だったと思われ、搦手は南東側の尾根筋に想定されます。 |
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「第二次但馬侵攻」で羽柴勢に降伏した垣屋播磨守光成(宗官)は、その後 但馬先方衆をつとめて「鳥取城攻め」で軍功をあげ、因幡国浦富に所領が宛がわれました。でっ、光成は文禄元(1593)年、同地で死去したと伝えられます。現在、鳥取県岩美町浦富に光成の墓所があります。(写真左) |
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