宵 田 城
兵庫県豊岡市(旧日高町)日高町宵田・岩中
立地・構造
 宵田城は但馬日高盆地の南端、円山川左岸に屹立した城山(標高154m 比高130m)に築かれた山城で、城の西ー北ー東側下を流れる稲葉川を自然の濠としています。城の規模は東西300m×南北200mほど、城縄張りは東西に細長い頂部を加工して構築した階段状の主郭ー二の郭ー三の郭からなる段郭群とこれに付随した郭群からなり、規模は主郭が東西40m×南北20m、二の郭が東 現地説明板の図
現地説明板の図(右が北方向)
西50m×南北30m、三の郭が東西20m×南北30mほど、主郭・二の郭間は高さ7−8m、二の郭・三の郭間は高さ5−6mの切岸で区画されています。城の北ー東ー南側は急峻な断崖になっているため、防御施設としては緩斜面の尾根部に敷設した段郭群と不規則に普請した竪堀だけですが、尾根続きになる西側は主郭から6−7m切り落として小郭を敷設し、さらに10m切り落として二重堀で尾根鞍部を遮断する構造になっています。同地は南北に流れる円山川と西側に流れる稲葉川が合流し、これに沿った街道も合流することから、宵田城にはこの街道筋を監視・防御する機能があったと想定されます。

 宵田城は永享2(1430)年、但馬国守護代 垣屋隆国(遠江守義遠か?)により築かれ、次男の隠岐守国重(越中守熙知か?)を城主に据えたと伝えられます。垣屋氏は相模国大住郡土屋郷を本貫とする相模武士団「土屋党」の一族とされ、南北朝期 土屋重教が山名弾正少弼時氏に従がって畿内に移り住んだとされます。康応元(1389)年、山名家の嫡流 弾正少弼時義が死去すると、将軍 義満は山名の勢力削減をもくろみ、時義の跡を継いだ時熙・氏幸兄弟追討を時熙の叔父 氏清、従兄の満幸に命じます。しかし明徳2(1391)年、義満が時熙・氏幸兄弟を赦免し、逆に氏清・満幸を挑発したため、氏清・満幸は山名一族を誘って京に出陣します。これにより「山名の内訌」は幕府と山名の対立に拡大し(「明徳の乱」)、この際 垣屋弾正は山名嫡流の右衛門督時熙に与しました。そして乱は幕府方の勝利で終結し、乱後 時熙は但馬国守護職に任じられ、垣屋弾正も時熙に従って但馬に土着して楽々前城を築いて本拠としました。そして垣屋氏は山名氏から重用され、弾正の子 遠江守義遠は但馬国守護代に任じられ、この頃 宵田城楽々前城の支城として築かれたと推測されます。室町ー戦国期の宵田垣屋氏の詳細な事績は不明ですが、垣屋惣領家と行動をともにしたと推測されます。永禄12(1569)年、但馬国守護職 山名右衛門督祐豊は織田軍の攻撃を受けて但馬此隅山城を追われましたが(「第一次但馬侵攻」)、元亀元(1570)年 信長に詫びをいれて旧領を回復しました。しかし天正3(1575)年、祐豊は毛利と盟約を結んで織田に叛旗を翻しまます。このため天正8(1580)年、羽柴秀吉の「第二次但馬侵攻」が開始され、宵田城は羽柴勢の猛攻を受けて落城、城主の垣屋峰信は討死にしたと伝えられます。
歴史・沿革
宵田城 二の郭の切岸
メモ
但馬山名氏の重臣 垣屋氏の庶子家 宵田垣屋氏の「要害」
形態
山城
別名
南龍城 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
登口前の空地借用
訪城日
平成21(2009)年3月28日
宵田城は日高市街地の南方、通称 城山に築かれた山城で、北西ー北ー東麓に稲葉川が城山を囲むように流れています。(写真左上) でっ、城へは南麓の水力発電所を目印にし(写真右上)、隣接する鹿島神社(写真左)の脇から送電塔の保守用林道を進みます。(写真左下ー車両の通行はできません) でっ、保守道をしばらく進むと中腹部に旧道の案内杭が現れます。(写真右下) ま 〜〜〜、保守道を進んでも行けるのでしょうが、管理人はここから旧道に入りました。
がっ、旧道とは名ばかりで、道は途中で消滅します。ただし誘導用と思われる赤いリボンがところどころにあり、これをめやすに直登しました。登ったのは南東側の尾根筋と思われ、4−5段の段郭群(写真左上・右上・右)で処理されています。ただ ・・・・・、内部は藪々々・・・・・。でっ、辿り着いた城山の頂部は西から主郭ー二の郭ー三の郭と階段状に郭が構築されています。このうち最下段の三の郭は東西20m×南北30mほど(写真左下)、先端から日高市街地・豊岡方向を見渡すことができます。(写真右下)
二の郭(写真左上) 規模は東西50m×南北30mほど、主郭とは高さ7−8mほどの段差で仕切られています。(写真右上) また北西端は主郭の北側をカバーする帯郭に加工されています。(写真左)
主郭(写真左下) 規模は東西40m×南北20mほど、四周は急峻な切岸に加工され、二の郭からの導線は南側斜面を坂虎口状に敷設され、土塁で構築された虎口に繋がっています。(写真右下) 虎口は羽柴時代に桝形に改修されたとも。
主郭背後(西側)の尾根鞍部に落ち込む部分は6−7m切り落として小郭で処理し(写真左上・右上)、さらに10m切り落とした鞍部は二重堀で断ち切られています。(写真右) 構造的にはシンプルなものですが、ま 〜〜〜 相当 堅固な防御ラインといっていいでしょう。
 
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