百 宅 根 井 館
秋田県由利本荘市(旧鳥海町)鳥海町百宅
立地・構造
 百宅根井館は子吉川の上流部、子吉川支流の百宅川に沿った幅200−500m×長さ8kmの百宅谷の南側丘陵縁部に築かれた三館(上の館、中の館、下の館)からなる城砦群です。三館に共通することは、@北方向を監視するように配置されている。A痩尾根を利用して郭配置と防御施設(堀切等)が敷設されているが削平は甘く、あきらかに急造した砦である。B郭は狭く兵の収容能力は希薄で監視を主目的とした砦である。以上のことから推測すると、ある時期に砦を急造する必要があった勢力が短期間で築いたと推測されます。また三館はなんらかの方法で連携していたことも想定されます。

 百宅根井館は天正年間(1573−92年)、在地領主の根井正重によって築かれた臨時砦と推測されます。築城主体の根井氏は信濃から入部したと推測される「海野・滋野党」の一族で、入部時期は不明ですが、元徳3(1331)年 鳥海山に十二神将を鋳造して奉納した時の願文銅板 「鳥海山の銅器識文」(現在は所在不明)に(大井)正光」「滋野(根井)正家」の名が記されており、根井氏は矢島大井氏の祖と思われる大井氏とともに鎌倉中頃に「津雲出郷」(現在の矢島周辺)に入部していたと推測されます。そして根井氏は室町ー戦国期、大井氏に与力して鳥海山麓の猿倉、直根、百宅を領し、当初 矢島根井館を拠していたと思われますが、後に拠を猿倉根井館に移したと思われます。『奥羽永慶軍記』(あまり使用したくないのですが ・・・・・)によると天正19(1591)年、矢島大井満安が最上義光に山形城に招かれた留守中、満安の弟 与兵衛が謀反を起こし新荘館を占拠するという事件を起こしました。与兵衛の背後に矢島大井氏と敵対関係にあった山根館主 仁賀保氏がいたと思われますが、根井正重もこのクーデターに加担したと思われます。このため満安はすぐに矢島に戻り事態の収拾を図りましたが、仁賀保勢に攻められ荒倉館から妻の実家である西馬音内城に逃れ、ここで自害しました。根井正重が百宅根井館を築いたのは、矢島大井氏との軍事緊張があったこの頃と推測されます。また天正15(1587)年、豊臣秀吉が関東、奥州に向けて「総撫事令」を発令し大名間の私闘を禁じたことから、時期については同15(1587)年 以前だったと思われます。なお根井正重は天正18(1590)年の「奥州仕置」で百六十九石の所領を安堵されています。
歴史・沿革
百宅根井館のある百宅谷
メモ
「由利十二頭」 矢島大井氏の与力 根井氏の城砦群
形態
平山城
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・虎口?・堀
場所
場所ココです
上の館 中の館 下の館
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年5月11日
ー  上  の  館  ー
上の館は上百宅集落背後(南側)の丘陵上(比高40m)に築かれた平山城で、南北に延びた痩尾根を加工した複郭構造の小砦です。城縄張りは主郭を中心に北側に段郭を配したシンプルな構造で、南側は痩尾根で背後の丘陵基部と繋がっています。また西側の緩斜面は横堀で処理されているようです。主に上直根(ひたね)(タカノス、川熊)から上百宅に繋がる杣道を監視していたと思われます。
上の館は上百宅地区南方の北方向に張り出した丘陵上に築かれた平山城です。(写真左上) でっ、管理人は北麓から直登しましたが 比高10mほど登ったところに削平地らしいスペースがあります。(写真右上) あまりにきれいに削平されているため、遺構かどうかは不明。でっ、ここから4−5mの切岸を登ると、稜線は自然地形の緩斜面になり、段郭の存在が推測されるのですが ・・・・・。(写真左) でっ、辿り着いた主郭と思われる平場は30−40m四方ほど。(写真左下) 背後(南側)の稜線に堀切は見られず、痩尾根で鞍部に繋がっています。(写真右下)
   
主郭西側の斜面は比較的 緩斜面になっています。(写真右)
 
ー  中  の  館  ー
中の館は上百宅集落背後(南側)の稜線上(比高50m)に築かれた平山城で、上の館の西方1kmに位置します。規模は推定 東西50m×南北150mほど、城縄張りは南北に延びた痩尾根を加工した連郭構造で構築されていたと思われます。中の館の北側正面は上直根(ひたね)(タカノス、川熊)から上百宅に繋がる杣道の出入り口にあたり、この監視をしていたと思われます。
 
百宅根井館のある百宅地区は鳥海山の北東麓、百宅川に沿った幅200−500m×長さ8kmの細長い峡谷地形になっていて、ここに来るには直根地区から山を越えるか、子吉川をさかのぼるしか方法はありません。(写真左上) でっ、中の館は百宅谷の中央南縁の稜線上に築かれた山城です。(写真右上ー北側からの遠景) でっ、管理人は北麓から直登しましたが、稜線をしばらく進むと堀らしきものが確認できます。(写真左) でっ、堀を越えさらに緩斜面を進むと(写真左下)、主郭と思われる平場に辿り着きます。(写真右下) 規模は東西20−25mほどか。
主郭の背後(南側)に堀切は設けられず、痩尾根で丘陵基部と繋がっています。(写真左上・右上)
中の館の正面に直根(タカノス、川熊)から百宅に繋がる杣道が一望にでき、中の館はこの杣道が百宅谷に入る谷口を監視していたものと推測されます。(写真右)
 
ー  下  の  館  ー
下の館は下百宅集落背後(南側)の丘陵頂部(比高80m)に築かれた山城です。規模は推定 東西80m×南北150mほど、ピークに構築された主郭を中心に南側に郭を設けた小砦です。稜線の北側は急斜面の断崖で遮断され、背後(南側)は自然地形を利用した堀土橋が2箇所設けられているようです。下の館は三砦の中で比較的 規模は大きく、北西方向に向けて築かれており、子吉川沿いを監視する機能があったものと推測されます。
 
下の館は東西に細長い百宅谷の南西部(写真左上)、下百宅地区背後(南側)の丘陵上に築かれた山城です。(写真右上ー北側からの遠景 写真右上ー北東側からの近景) でっ、北東麓に荒れた山道があり、管理人はここから山道を登り 都合のいい場所で藪に突入し(写真左下ー東側からの近景)、郭らしき削平地に辿り着きました。(写真右下) とは言っても藪がひどく、写真画像ではわかりずらいですが ・・・・・。
でっ、ここから管理人は北方向に進みましたが、稜線に鞍部を利用したと思われる土橋状遺構が2ヶ所見られ(写真左上)、じきに主郭と思われる平場に辿り着きます。(写真右上) 規模は30m四方ほど、北側は急斜面になっていて、樹木に遮られていますが、かすかに下百宅の民家が確認できます。でっ、管理人はここから北東方向に延びた尾根から下山しましたが(写真左)、主郭の北側は北東、北西方向に尾根が延び馬蹄状になっています。(写真右下) でっ、麓は畝状に隆起し竪堀状になっています。(写真右下)
でっ、下山した北東麓には虎口?らしきものが見られます。(写真右)
 
秋田の中世を歩く