魚 津 城
富山県魚津市本町
立地・構造
 魚津城は富山平野の北東部、日本海に西面した角川河口部の右岸、微高地に築かれた平城で北側の神明川と南側の角川を自然の外濠とし、両河川の氾濫原を要害とした方形館を基本とした輪郭構造の平城だったようです。『三州志』によると城の規模は「本丸東西六十間(109m)、南北五十三間(96m)、塹南北幅二間(3.6m)、ニ丸繞本丸四方、長各九十六間(175m)、幅十五間(27m)とされ、また天明5(1785)年の『魚津町惣絵図』によると、主郭の北ー東ー南側に帯状の二の郭を巻 魚津町惣絵図
『魚津町惣絵図』
(現地パンフから 左側が北方向)
いただけのシンプルな構造の平城ですが、城の北西部に「出丸」の地名が残っており、この方向にも出砦が構築されていたと推測されます。なお大手虎口は北国街道に面した西側に開いていたようです。現在、城址は大町小学校の校地になっているため遺構等はありませんが、明治初年までは濠、土塁が残存していたようです。

 築城時期・築城主体ともに不明。『三州志』によると建武2(1335)年、椎名孫八入道により築かれたとされます。椎名氏は「承久の乱」承久3(1221)年)後、越中国新川郡の新補地頭として入部した千葉氏の庶子家と伝えられ、南北朝期 越中国守護職 畠山氏に加担した有力国人とされます。そして椎名氏は室町中期、新川郡守護代に任ぜられ松倉城を拠点に越中東部に勢力を拡大しました。魚津城はこの頃、北国街道を扼する松倉城の支城として椎名氏により整備(築城)されたと推測されます。天文5(1536)年に勃発した「越中大乱」以降、椎名氏と増山城主 神保氏の対立は激化し、永禄3(1560)年 椎名右衛門大夫康胤は越後国守護代 長尾景虎(上杉謙信)の従兄 長尾景直を婿養子に迎えて越後との同盟関係を強固なものとしました。しかし同11(1568)年、康胤は武田信玄、一向一揆勢力と結んで上杉支配から離脱し、このため翌12(1569)年 康胤の籠城する松倉城は上杉勢の攻撃を受けて陥落し、康胤は松倉城から追い落とされました。そしてこの松倉城攻め」の際、魚津城は上杉軍の拠点として河田豊前守長親が守備したとされます。天正6(1578)年、謙信が死去し「御館の乱」が勃発すると、織田信長は神保長住を飛彈口から越中に侵攻させて一定の勢力を扶植し、同9(1581)年 佐々内蔵助成政を越中に入国させて越中西部を制圧させました。同10(1582)年3月、柴田勝家率いる織田軍が魚津城を包囲したため、同年5月 上杉景勝は後詰として天神山城に出陣して織田勢と対峙しました。しかし信濃口で織田勢が不穏な動きをしたため、景勝は越後に撤退し魚津城は孤立無援となりました。そして6月3日、織田勢の総攻撃を受けた魚津城は落城し、城将の山本寺景長、吉江常陸介宗信、中条越前守景泰等は自刃しました。同年、「本能寺」で信長が横死すると織田勢は越中から撤退し、魚津城はふたたび上杉に奪還されましたが、翌11(1583)年 態勢を立て直した佐々成政の攻撃を受けてふたたび落城しました。同13(1585)年、佐々成政は羽柴秀吉の「越中の役」で降伏し新川郡以外の所領を没収され、また同15(1587)年 肥後国に移封され、越中国は前田領となります。前田時代の魚津城は前田被官の青山佐渡守吉次ー青山豊後守長正ー青山豊後守長次が城代をつとめましたが、元和年間(1615−23)の「一国一城令」により廃城。なお廃城後、魚津城に加賀前田藩の武器庫、米蔵が置かれたようです。
歴史・沿革
魚津城 城址碑
メモ
松倉城の支城
形態
平城
別名
 小津城・小戸城
遺構
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場所
場所はココです
駐車場
富山県魚津総合庁舎の駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年6月20日
現在、城址は大町小学校の校地、廻りは宅地化で改変されているため遺構等はありません。でっ、小学校南側の校門脇に魚津城の石垣に使われた(と伝えられる)石塁の城址碑が建てられています。
秋田の中世を歩く