長 谷 部 信 連 の 墓 陵
石川県輪島市山岸町
 長谷部左兵衛尉信連は平安末ー鎌倉初期にかけて活動した武士です。長谷部氏は清和源氏の庶流とされ、信連の四代前の季頼の代に朝廷から「長谷部」姓を賜ったと伝えられます。父の長谷部右馬允為連は三河国長馬を領して長馬新大夫を称し、信連は遠江国長邑で生誕したと伝えられます。その後、信連は滝口の武士として以仁王(三条高倉宮)に仕え 「三条宮侍」と称されます。(『源平盛衰記』には「高倉みやへ仕へ奉れる侍に長谷部信連あり、長兵衛尉と称す」と記されています) 治承4(1180)年、以仁王は源三位頼政と謀って平氏打倒のクーデターを計画します。しかし計画はすぐに露見し、以仁王は近江国三井寺へ遁れました。この際、信連は以仁王を逃して高倉院で追手勢と対峙し、時間
長家史料館リーフレットの所収図
稼ぎを図ったと伝えられます。そして信連は追手の検非違使 藤原光長に生け捕られ、伯耆国日野郷に配流されました。寿永4(1185)年、平氏滅亡により信連は恩赦されます。そして文治2(1186)年、信連は梶原景時を通じて源頼朝のもとに参向して鎌倉御家人に列し、安芸国検非違使に任ぜられました。また同年、信連は能登国「大屋荘」の地頭職に任ぜられ、能登国河原田(現在の輪島市山岸町周辺)に拠したとされ、珠洲郡に配流された前大納言 平時忠を監視する役目を担っていたと思われます。信連の死後(『吾妻鑑』によると建保六(1218)年十月二十七日 河原田で没)、長谷部氏は朝連、政連父子の代に姓を「長」に改称し、拠点を穴水に移したとされます。信連の墓所は地元では「ちょうずか」と呼ばれているようです。(場所はココです)
陵墓全景 
長 谷 部 信 連 の 墓 陵
陵墓 
灰塚