八 木 城
兵庫県養父市(旧八鹿町)八鹿町八木
立地・構造

八木城 概念図
 八木城は八木川の左岸、山陰道を見下ろす丘陵ピークに築かれた山城で、標高409m(比高300m)の丘陵ピークに築かれた八木土城と、八木土城から南東側稜線の小ピーク(標高330m 比高220m)に築かれた八木城(八木石城)からなります。八木石城の規模は東西350m×南北270mほど、城縄張りはピークの主郭を中心に東・南側に延びた稜線尾根を普請して郭を階段状に配置しています。主郭の規模は東西60m×南北30mほど、内部は東西2段に削平され、北端に天守が構えられていたとされます。虎口は東側に開き、スロープ状の通路から桝形虎口に繋がるよう設定されています。東ー南ー西側は高さ10mの高石垣が構築され、南東隅に櫓台が築かれています。二の郭主郭の東から南側に敷設された帯状の郭で、東側下には三の郭・東郭群が、南側下には南郭群が敷設されています。大手筋は南東麓の八木地区からのルートが想定され、稜線尾根には小郭群や尾根を削り込んだ土橋状の通路が見られます。縄張り自体は高い切岸と段郭群を防衛ラインの基本とした古い形態ですが、主郭に構築された織豊系の石垣・桝形等 見どころの多い城郭です。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には康平6(1063)年、「前九年の役」で軍功のあった閉伊氏が「八木荘」に入部して築いたとも。また通説では鎌倉初期、但馬日下部氏の嫡流 朝倉高清の次男 新太夫安高(重清)が「八木荘」を分知され、八木城(八木土城)は安高あるいは安高の子 高吉の頃に築かれ、安高の家系は八木氏を称したとされます。そして承久3(1221)年に勃発した「承久の乱」で惣領の朝倉信高は宮方に加担したため没落しましたが、幕府方に与した八木安高は乱後、北条氏に近ずき勢力を拡大し、一族は但馬各所の地頭職として割拠するようになります。建武2(1335)年、足利尊氏が「建武政権」に対して反旗を翻すと八木泰家は足利尊氏方に与し、嫡子の重家は但馬国守護職に補任された山名氏の被官となりました。その後、八木氏は山名の重臣となり、戦国初期の当主 八木但馬守宗頼は山名宗全のもと一時的に但馬国守護代になっています。永正9(1512)年、八木直信は垣屋・太田垣・田結庄氏等の但馬国衆と謀り、守護職 山名致豊を排して弟の誠豊を擁立し、その後 山名氏が弱体化すると八木氏は独立色を強めて他国の勢力と結びついていきました。天正3(1575)年、羽柴秀吉の中国攻略が開始されると、八木豊信は垣屋豊続、太田垣輝延等と山名祐豊を擁立して毛利と同盟を結び、同4(1576)年 織田方の尼子勝久・山中鹿之助が籠る因幡若桜鬼ヶ城攻略に参陣しています。そして同5(1577)年、羽柴秀吉は但馬に兵を進めましたが、播磨上月城上月(赤松)蔵人大輔政範が織田方に叛いたため播磨への撤退を余儀なくされました。しかし但馬に残った秀吉の弟 秀長が竹田城攻略に成功して但馬攻略の拠点にすると、親毛利派の垣屋豊続は吉川元春に救援を要請します。このため同7(1579)年、元春は但馬に出陣しましたが、伯耆国羽衣石城で南条右衛門尉元続が毛利に叛いたため急遽撤退し、このため但馬の親毛利勢力は孤立しました。八木豊信はこの頃、羽柴勢の攻撃を受けて降伏したと推測され、同8(1580)年 豊信は羽柴勢に加担して因幡鳥取城攻めに参陣し、若桜鬼ヶ城の城将を任されています。しかし同9(1581)年、毛利は鳥取城に吉川経家を入れて巻き返しを図り、若桜鬼ヶ城は毛利勢の攻撃を受けて落城 豊信は但馬に撤退しました。(その後の豊信の消息は不明。所領没収か?) 八木氏没落後の天正13(1585)年、秀吉は三木別所家出身の孫右衛門尉重棟を八木城に配し、八木石城はこの頃 別所氏により改修されたものと推測されます。その後、重棟・吉治父子は「九州侵攻」「小田原の役」「文禄の役」等に参陣しましたが、慶長5(1600)年の「関ヶ原」で吉治が西軍に与して丹後田辺城攻めに参陣したため、戦後 別所家は改易となり八木城は廃城となりました。(後に別所吉治は「大坂の陣」で軍功をあげ丹後由良で家名を復活させましたが、寛永5(1628)年 参勤交代を怠ったためふたたび改易になっています)
歴史・沿革
八木城 主郭の虎口
メモ
八木城(八木石城) ー 別所氏が改修した織豊城郭
八木土城 ー 「山名四天王」 八木氏の「要害」
形態
山城
別名
八木石城・八木古城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・櫓台・石垣・堀・井戸祉
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
 平成21(2009)年3月28日
八木城山陰道が通る八木地区背後の丘陵部に築かれた山城で、大きくは織豊期の石垣が残る八木城(八木石城)と、八木城からさらに尾根稜線を登ったピークに築かれた八木土城からなります。(写真左上) でっ、麓から八木土城までの高低差は300mほど、南東麓の下八木地区に登口があります。(写真右上) 登山道はよく整備され、途中で中八木からの登山道が合流します。(写真左) しばらく進むと尾根を削り込んだ土橋状の通路(写真左下)や稜線に構築された小郭がいくつか確認できます。(写真右下)
東郭群(写真左上) 主郭から東側に延びた稜線を加工した郭群で、最大4−5mの段差(写真右上)で区画された7−8段の段郭群からなります。郭は痩尾根を利用している割に比較的 規模は大きく、まとまった平場になっています。(写真右)
三の郭(写真左下) 東郭群の最上段に位置し、規模は東西40m×南北20mほど。内部は東西2段に削平され、二の郭とは5−6mの切岸で区画されています。(写真右下)
二の郭(写真左上) 主郭の東ー南側をカバーした幅10−25mの帯状の郭。東側下に東郭群が、南側下に南郭群が敷設されています。(写真右上) 三の郭から主郭への導線は、二の郭の東⇒南側に廻り込むように設定され、この間 主郭から横矢がかかる構造になっています。(写真左)
八木城最大の見どころは主郭側面に築かれた石垣でしょう。(写真左下) 石垣は「野面積」で構築されていますが隅部は算木積で積まれ、天正末ー慶長期 別所重棟時代の改修と思われます。(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は東西60m×南北30mほど、内部は東西の2段構造。東側に桝形虎口が(写真右上)、南側縁に高さ1−1.5mの石積の土塁が残存し(写真右)、また最上段の北端に天守が築かれていたとされます。(写真左下) 現在、内部に小祠と八木一族の供養塔が祀られています。
主郭から八木土城に繋がる稜線は土塁状に削り残した通路で処理され、尾根筋は幅7−8m×深さ4−5mの堀切で遮断されています。(写真右下) でっ、ここで石城は完結します。
ー 八 木 土 城 ー
 八木土城は標高409m(比高300m)の丘陵ピークに築かれた山城で、ピークに築かれた主郭主郭から南東方向に延びた稜線に構築された階段状の段郭群からなり、全体の規模は東西160m×南北350mほど。規模は主郭が20m四方、二の郭が東西15−20m×南北25mほど、他の郭も痩尾根を削平しているため幅10−20mほどの小郭に加工されています。各郭は最大5−6mの段差で区画され、西側縁に高さ1−1.5mの土塁が築かれています。土塁は山陰道に面した西側に築かれていることから、この方向からの侵入を想定したものと思われます。中央部の郭に井戸祉と思われる窪地があり、水の手郭と想定されます。この郭は西ー南側は土塁で、北側は上位郭の段で区画され、厳重に防御されています。また二の郭の虎口に食違い虎口(外桝形か?)が採用されていますが、これは戦国期の改修と思われます。八木土城は中世 八木氏が「要害」として利用していたと思われますが、室町期(か?) 八木氏が中腹に新たに八木城(八木石城)を築いたため、軍事上の重要性が薄れたと思われます。しかし戦国期、この地で軍事緊張が高まると、ふたたび八木土城「詰城」に取り立てられ、この際 食違い虎口等が設けられたのでしょう。その後、但
現地説明板の図
馬国が平穏になった天正13(1585)年頃、八木城に入城した別所重棟は八木城(八木石城)を改修しましたが、八木土城は特に改修を施さず破却したものと推測されます。(場所はココです)
八木土城へは石城の堀切を越えて尾根道を進むだけで辿り着けます。(写真左上) 途中、急斜面もありますが、比高差50mほどで下段の郭に辿り着きます。(写真右上) 八木土城は段郭を基本としたシンプルな構造で、各郭は狭い尾根筋を削平した幅10−20mの小規模な郭群です。(写真左)
八木土城の特徴は西縁に連続的に土塁が築かれていること。この方面に山陰道が通っているためと思われますが、比高差は300mほどあり、さらに急峻な断崖になっているため不必要な気もするのですが ・・・・・。(写真左下・右下)
中間部の郭には水の手(井戸祉)と思われる窪地があり、現在も溜水しています。郭の規模は10−15m四方ほど、西ー南側に土塁が築かれ、南西隅に虎口が設けられています。(写真左上)
二の郭(写真右上) 規模は東西15−20m×南北25mほど、南端に食違い虎口が設けられ下位郭からスロープ状の通路で繋がっています。(写真右)
主郭(写真左下) 規模は20m四方ほど、二の郭とは5−6mの切岸で区画されています。(写真右下) 背後の堀切は未確認。
秋田の中世を歩く