山 野 辺 城
山形県東村山郡山辺町山辺
立地・構造
山野辺城
は村山盆地の中央西部、西から東方向に張り出した半独立状の丘陵先端(比高20m)に築かれた丘城です。城の規模は推定 東西250m×南北400mほど、城縄張りは丘陵部の
主郭・二の郭
を麓部の
三の郭・四の郭
が取り囲む輪郭構造の城郭と想定されています。規模は
主郭
が東西70m×南北100m、
二の郭
は
主郭
を囲むように敷設され、東西200m×南北320mほど。麓部は北に1条、他の3方向には2−3条の堀(濠)がめぐらされ防御ラインとし、また堀の
外側
に
外郭
として
三の郭・四の郭
が配されていたようです。現在、
主郭・二の郭
部分に山辺小学校、中央公民館等が建設され遺構は消滅しています。
築城時期・築城主体ともに不明。一説に
「前九年の役」
(1051−62年)の際、須賀川山辺氏(出自、詳細ともに不明)により築かれたとも。また室町期、
山形城
主 最上氏の支配下にあった在地国衆の山野辺氏により築かれたとも。永正11(1514)年、陸奥
梁川城
主 伊達左京大夫稙宗が最上領に侵攻すると、山野辺刑部は最上軍に加担して
長谷堂城
に出陣しましたが討死しています。最上義光時代、日野備中守が城主をつとめましたが、慶長5(1600)年の
「慶長出羽合戦」
の際
山野辺城
は
米沢城
主 直江山城守兼続率いる上杉勢の攻撃を受けて落城しています。翌6(1601)年、最上義光の四男 右衛門大夫義忠が山野辺氏の名跡を継いで、
楯岡城
から
山野辺城
に移封され、
山野辺城
の改修と城下町の整備を施したとされます。元和3(1617)年、藩主 駿河守家親(義忠の実兄)が死去すると、最上家中は家親の嫡子 義俊派と義忠派に分裂し、裁定は幕府に持ち込まれました。(
「最上騒動」
) しかし幕府の裁定を両派が拒否したため、元和8(1622)年 最上家は改易となり、この際
山野辺城
は廃城になったものと思われます。その後、文化9(1812)年から文久3(1863)年まで
山野辺
は白河阿部藩の飛地となり、文政6(1823)年
山野辺城
址に
陣屋
が置かれました。
歴史・沿革
山野辺城 山野辺陣屋の玄関
メモ
中世 ー 村山郡の在地勢力 山野辺氏の館城
近世末期 ー 白河阿部藩の陣屋
形態
丘城
別名
小鶴城
遺構
郭(平場)・堀祉
場所
場所は
ココ
です
駐車場
山辺町中央公民館の駐車場借用
訪城日
平成20(2008)年7月16日
山野辺城
は山辺市街地の北側、現在 山辺小学校のある小高い丘に築かれた丘城です。外部から城内へは南大手(写真左上)、東大手(写真右上)で繋がっていたとされ、現在 どちらも車道になっていますが、往時の城道をトレースしたものと思われます。でっ、現在
山野辺城
の
主要部
に山辺小学校(写真左)、中央公民館(写真左下)等が建設され、遺構は消滅しています。小学校の南側に1段 高くなっている平場(現在は駐車場)があることから、
主郭・二の郭
間は段で画されていたと想定されます。なお城内に
山野辺陣屋
の玄関が残存しています。(写真右下)
北側の濠祉
山野辺城
の周囲には2−3重に堀(濠)がめぐらされ、防御ラインとしていたようです。現在、北側の濠のみ改変されていますが、明瞭に残存しています。
専念寺
山野辺城
の北東側に位置し、山野辺義忠の菩提寺とされます。位置関係から
有事の際
の砦を想定したのかもしれません。(場所は
ココ
です)