中 野 城
山形県山形市中野
立地・構造
 中野城は村山盆地の中央部、逆川東岸の微高地に築かれた平城です。城の規模は推定 350m四方ほど、北縁が長い逆台形の形態をした単郭構造の城館と推測されます。城は逆川を自然の濠として、北ー東ー南側を幅6−10mの堀で仕切って独立させ、内部は高さ2mの土塁で囲郭されていたとされます。虎口は東、北、南側の中央部と南西端に設けられ、南虎口が大手と伝えられます。現在、城址は中野地区の住宅地に包括されて
いるため遺構等は見られませんが、周辺に中小路、楯坂、袋町、御倉前、的場、大手窪、馬場宿、馬洗場等の城館や城下に関連したと思われる地名が残っています。

 南北朝期の延文年間(1356−61年)、「出羽按察使」として出羽国村山に入部した斯波式部丞兼頼は南朝方の寒河江大江氏を降して村山に勢力を扶植しました。そして兼頼の跡を継いだ嫡子の右京大夫直家、嫡孫の満直の代に最上氏は領内に庶子家を分知し、この際 満直の次男 満基が中野に封ぜられ中野城を築いたとされます。(応永年間 1394−1427年頃か?) その後、満基の家系は中野氏を称し、最上嫡流に跡継ぎが途絶えると中野氏から嗣子が迎えられ、文明11(1479)年 中野満氏が最上の家督を継ぎ 山形城中野城を直轄したと伝えられます。そして満氏のあとを継いだ左衛門佐義淳は嫡子の修理大夫義定を山形城に置き、次男の義建を中野城に配して中野氏を継がせました。永正11(1514)年、突如 最上領に侵攻した伊達左京大夫稙宗は長谷堂城で最上勢を撃破し最上領を制圧します。そして最上氏を勢力下においた伊達氏は中野義清の子 民部大夫義守を義定の養嗣子とし、義定死去後 義守を最上氏の当主に据えました。そして義守は天文11(1542)年、「天文伊達の乱」が勃発すると稙宗方に与して出陣し、またこの機に乗じて伊達支配から脱して独立に成功しました。その後、義守は村山盆地に勢力を広げ、嫡子の右京大夫義光を嗣子とし次男の義時を中野城主に据えましたが、元亀元(1570)年頃 義光と対立します。内訌は最上家の重臣 氏家伊予守定直の仲裁により和解し、同年 義光が最上家の家督を継ぎましたが、天正2(1574)年 両者はふたたび対立し、伊達氏が軍事介入する「天正最上の乱」に発展しました。しかし乱は義光有利のうちに和睦が成立し、この際 義光は中野城を攻撃して中野義時を自害に追い込んだと伝えられます。(義時の存在自体が後世の創作とする説もあるようです) その後、中野城は最上氏の支城として家臣が城代をつとめましたが、元和8(1622)年 最上氏改易の際、廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
中野城 城址碑
メモ
最上氏の庶子家 中野氏の館城
形態
平城
別名
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遺構
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場所
場所はココです
駐車場
JAやまがた大郷駐車場借用
訪城日
平成24(2012)年5月9日
中野城は大郷小学校周辺に存在した平城で、現在は中野地区に包括され、遺構等は消滅しています。(写真左上ー北西側から 写真右上ー南西側から) ま 〜〜〜、西側を流れる逆川を自然の濠とし、北ー東ー南側は人為的な()で画されていたようです。現在、大郷小学校の南側に城址碑が建てられ、この地が城址だったことが認識できるのみ。(写真左) ちなみに小学校の南西側の橋のあたりに「西門」が(写真左下)、さらに南側の橋のあたりに「南大手門」が構えられていたようです。(写真右下)
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