天正十三(1585)年、畿内を制圧した羽柴秀吉は異父弟の小一郎秀長に大和、紀伊、和泉、河内(一部)を宛がい、秀長は前大和国主 筒井氏の拠点 大和郡山城に入城しました。そして翌十四(1586)年頃から秀長は体調を崩しましたが、天正十五(1587)年の「九州討伐」では豊後・日向方面の総指揮官として参陣しています。このため同十八(1590)年頃からふたたび病が悪化し、同十九(1591)年一月ニ十二日 秀長は大和郡山城内で死去しました。享年 五十二歳。死去後、秀長の遺骸は秀吉が建立した菩提寺 大光院に葬られ、豊臣氏滅亡後 大光院は京 大徳寺の塔頭として移されましたが、位牌は東光寺(現
春岳院)に託されました。そして墓所は江戸中期頃には荒廃し、このため安永六(1777)年 春岳院の僧 栄隆等により五輪塔が建立されました。 (場所はココです)
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