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八森城は矢島盆地の中央西端、西から東方向に張り出した丘陵先端に築かれた平山城です。(写真左上・右上) 現在、城址の大部分は矢島小学校の校地になり、先端の高所部分に矢島神社、矢島招魂社が祀られています。でっ、矢島小学校の西側に段丘面が広がり、往時
ここに家臣屋敷地が設けられていましたが(写真左)、この部分は八森城の外郭と捉えられ、段丘上を「惣構」にしていたものと思われます。でっ、外郭の南西隅に「表門」が構えられ(写真左下)、大手導線はここから城内大路を経て陣屋の大手門に繋がっていました。(写真右下ー城内大路) |
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八森陣屋の西側には縦横に交錯する大路小路が敷設され、家臣の屋敷地が設けられていました。でっ、現在の車道はこの大路小路を踏襲したものなのでしょう。なお大路小路には城下町特有の「鍵折れ」は見られず、ケッコウ遠くまで見渡すことができます。 |
(写真左上) 旧楊小路祉 (写真右上) 旧桜小路祉 (写真右) 旧山本大路祉 (写真左下) 旧竹小路祉 (写真右下) 藩学日新堂祉 |
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陣屋内部は現在、矢島小学校の校地になっているため内部に入ることはできませんが(写真左上)、西縁に往時の濠と大手門祉が残存しています。(写真右上・左ー濠祉
写真左下ー大手門祉碑) 濠の規模は幅6−7m×長さ60mほど、濠は丘陵上を完璧に断ち切ってはおらず、鉄砲での戦闘が主流となった近世城郭としては非常に貧弱なもの、濠の機能が形骸化した頃に敷設されたものなのでしょう。(あるいは一種のファッションか?)
なお小学校の東端に矢島神社、矢島招魂社が祀られる高所がありますが、たぶんここが中世の矢島大井氏時代の出城だったのでしょう。(写真右下) |
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旧佐藤政忠家住宅(写真左上) 明治2(1869)年に建てられた武家住宅。「戊辰戦争」の際、陣屋・城下とともに焼失しましたが、その後 再建されました。 |
八森苑(写真右上) 生駒氏の重臣 佐藤氏が明治10(1877)年頃、武家屋敷と明治大正期の近代和風的要素を取り込み建設した木造和風住宅。 |
(写真右) 竜源寺山門 |
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竜源寺(写真左上ー本堂) 元和9(1623)年、矢島に入封した打越左近光隆が打越氏の菩提寺として開基した寺院。打越氏改易後、矢島に入封した生駒氏の菩提寺となり、境内に初代藩主
壱岐守高俊の墓所が置かれています。(写真右下) |