根 城 館
秋田県由利本荘市(旧矢島町)矢島町荒沢
立地・構造
 根城館は矢島盆地の中央南縁、西の荒沢川と東の田沢川に挟まれ北方向に張り出した段丘先端(比高70m)に築かれた平山城(崖縁城)です。規模は東西500m×南北450mほど、内部は西端の高所に構築された主郭主郭の東側に敷設された東郭・馬場、北側に敷設された北郭群からなり、規模は主郭が東西70m×南北170m、東郭が東西120m×南北50m、馬場が東
根城館 概念図
西120m×南北45−60mほど、各郭間は段差で仕切られています。大手筋は北西麓から稜線を辿るルートが想定され、導線沿いに横矢がけの郭群が敷設され、また竪堀で導線を遮る構造になっています。大手虎口は東郭の西側に設けられた桝形虎口で周辺に相当量の石塁が崩落していることから虎口は石積で構築されていたと思われます。また東郭・馬場間の段差部分、馬場の北西虎口にも石積が見られます。根城館最大の見どころは東郭の北東側稜線を切り刻んだ三重堀+畝状竪堀群でしょう。畝状竪堀は稜線を抱えるよう放射状に敷設されたもので13条確認できます。また馬場の南縁に高さ2−3mの土塁が、南西隅に搦手と思われる「折れ虎口」が設けられています。現在、館祉は北郭群を除く大部分が荒地になっていますが、東郭の北東隅に八幡神社が祀られています。同地は矢島盆地を眺望できる高所に位置します。

 築城時期・築城主体ともに不明。館主 矢島大井氏は甲斐源氏 小笠原氏の庶流で小笠原長清の七男 朝光が承久3(1221)年に勃発した「承久の乱」で幕府方に加勢して軍功を挙げ、戦後 佐久郡「大井荘」の地頭職に任ぜられ土着したことを初源とします。建保元(1213)年、由利郡の地頭 由利惟久は「和田の乱」に連座して改易となり、由利郡の所領は源頼朝の側室 大弐局に宛がわれました。(『吾妻鏡』) その後、由利郡の地頭職は大弐局の甥 大井朝光に譲渡され、朝光、朝光の嫡子 光長の一族、庶子が「津雲出郷」(現在の矢島周辺)に入部して土着したものと思われます。元徳3(1331)年、十二神将を鋳造して鳥海山に奉納した際の「鳥海山の銅器識文」(現在は行方不明)に「津雲出郷」の大旦那として源正光(大井氏)と滋野行家(根井氏)の名が記されており、大井氏はこの頃までに「津雲出郷」の在地勢力に成長していたものと思われます。また一方で『由利十二頭記』によると根城館は応仁年間(1467−69年)、鎌倉府からこの地に派遣された大井義久により築かれたとされますが、室町ー戦国中期までのこの地の動向は不明。(矢島大井氏は義久ー光久ー義満ー満安と続いたようですが ・・・・・) 室町中期以降、矢島大井氏は同族の山根館 仁賀保氏と対立し、永禄3(1560)年 矢島大井氏と滝沢氏が対峙した際、仁賀保氏は滝沢方に加担し この戦の傷がもとで矢島大井義満は死去しています。天正3(1575)年、義満のあとを継いだ五郎満安は滝沢氏を攻撃し兵庫頭政家を自害に追い込みます。さらに翌4(1576)年、満安は矢島領に侵攻した仁賀保大和守挙久(きよひさ)を迎撃して討ち取り、同5(1577)年 挙久のあとを継いだ挙長(きよなが)を討ち取りました。そして天正11(1583)年、矢島大井氏の調略により重挙が仁賀保家家臣により謀殺され仁賀保氏の嫡流は断絶しました。この間、満安は西馬音内城主 小野寺茂道の娘を娶り、横手城主 小野寺氏との関係を強化しています。天正19(1591)年、満安が山形城主 最上義光の招きに応じて矢島を留守にした際、矢島では満安の弟 与兵衛の謀叛が勃発し、このため満安は急ぎ矢島に戻り乱を鎮圧しました。しかし由利衆の攻撃を受けた満安は根城館から拠点を新荘館に移し、さらに荒倉館にたて籠って由利衆と対峙しましたが、その後 舅の西馬音内茂道を頼って西馬音内に逃れました。そして満安は小野寺遠江守義道から猜疑をかけられた茂道を救うため西馬音内城で自刃したと伝えられます。その後、矢島領は仁賀保氏に併呑され慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、矢島には由利に入封した楯岡豊前守満茂の弟 長門守満広が入封します。なお「奥州仕置」で所領安堵された由利衆の中に矢島大井満安の名はなく、矢島大井氏が没落したのは天正15−16(1587−88)年頃と推測され、根城館もこの頃 廃されたものと思われます。
歴史・沿革
根城館 馬場の南西虎口
メモ
「由利十二頭」 矢島大井氏の館城
形態
平山城(崖縁城)
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・桝形?・石積・堀・畝状竪堀
場所
場所はココです
駐車場
館祉南側に駐車スペースあり
訪城日
平成18(2006)年4月19日 平成25(2013)年5月18日 平成27(2015)年12月13日
根城館は矢島盆地の中央南縁、北方向に張り出した段丘先端に築かれた平山城です。(写真左上ー北西側からの遠景) でっ、館へは北麓に標柱が建てられ、ここから散策路が設けられています。(写真右上) 散策路は稜線の東側側面を通るように設定され、しばらく進むと進行方向右側に郭と思われる耕作地が見られます。(写真左・左下ー北郭群) 郭の規模は東西140m×南北160mほど、内部は低い段差で三段に削平されていたようです。(100%開墾されているため、どこまでが往時の遺構かは不詳) でっ、さらに散策路を進むと大手虎口に辿り着きます。(写真右下)
大手虎口前の導線は竪堀で狭められ(写真左上)、また西側の丘陵上から横矢がかかる構造になっています。ちなみに丘陵上は2段の東西に細長い帯郭に加工され、このうち上の郭は二重堀で潰されています。(写真右上)
大手虎口(写真右) 東郭に繋がる桝形虎口。周辺に相当量の石塁が散らばっており、石積で補強されていたと思われます。
東郭(写真左下) 規模は東西120m×南北50mほど、実質的な二の郭と想定されます。北東端は分厚い土壇に加工され大井氏創建の八幡神社が祀られています。(写真右下)
根城館最大の見どころは八幡神社背後の北東稜線に見られる三重堀+畝状竪堀群でしょう。(写真左上) 1条目の堀は5−6m切り落とした幅4−5mほどの堀切(写真右上)、さらに3−4m切り落とした2条目の堀は稜線を大きく抱え込んだ横堀で(写真左)、ここから13条の畝状竪堀が放射状に敷設されています。(写真左下・右下) さらにこの先の稜線は5−6m切り落とした堀切で処理されています。畝状竪堀は矢島大井氏支配下の赤館でも見られ、仁賀保氏との抗争が激化した天正(1573−93年)初期頃の改修と思われます。
(写真左上) 3条目の堀切 
東郭馬場の段差は1mほど、段差部分に一部 石積が見られ(写真右上)、また馬場との虎口にも石積が確認できます。(写真右・左下)
馬場(写真右下) 規模は東西120m×南北45−60mほど、南縁に下幅5−6m×高さ2−3mの土塁が約100mにわたって築かれ、南西隅に外部に繋がる「折れ虎口」が設けられています。ま〜〜〜、厩を含む馬場だったのでしょう。
(写真左上) 馬場の南土塁
(写真右上) 馬場の南西虎口
(写真左) 馬場の南土塁
南土塁の外側(南側)には堀が想定されますが、不詳。なお東縁に堀の痕跡と思われる窪地があり、たぶん 堀は埋められたのでしょう。(写真左下) また主郭の南側斜面には段差のある二重堀が敷設されていました。(写真右下ー 藪がひどく写真画像では?ですが ・・・・・)
主郭の北側斜面は2段の帯郭に加工され、このうち上の帯郭の東部が二重堀で潰されています。(写真左上ー下の帯郭 写真右上ー上の帯郭) 規模はそれぞれ幅5−10m、段差は4−5mほど。でっ、上の帯郭の北西端に高さ2mの土塁が築かれ(写真右)、土塁の東側に切り込み式の虎口が見られます。(写真左下) また北西隅には桝形状の虎口が設けられ、導線は主郭の北西虎口に繋がっています。(写真右下)
(写真左上) 主郭の南西虎口 
主郭(写真右上・左・左下) 規模は東西70m×南北170mほど、内部は低い段差で区画された三郭からなります。でっ、内部にめぼしい遺構は見られず、石塁列が見られるのみ。(写真右下ー屋敷割の築地?) なお主郭の虎口は馬場に繋がる東側に想定されますが不詳。
(写真左上) 主郭の石塁列 
根城館南側の鞍部には矢島大井氏の家臣役宅が置かれていたようです。(写真右上・右) 現在、内部は耕作地に改変されているため遺構はありません。
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