月 山 富 田 城
島根県安来市(旧広瀬町)広瀬町富田
立地・構造
 月山富田城は飯梨川右岸の通称 月山(標高183m 比高150m)に築かれた詰城(月山要害)と、北西側中腹の丘陵上に構築された郭群からなる大規模な「根小屋式城館」で、規模は東西1.5km×南北1.5kmの広範囲にわたっています。月山要害は東西320m×南北20−30mほどの細長い城域を三郭に区画した連郭構造の山城で、四方の急峻な断崖を要害としています。月山の北西側中腹には「山中御殿平」 image3721.jpg
現地説明板の図
呼ばれる平場が設けられ、「根小屋」と推測されます。 規模は東西130m×南北110mほど、東ー北ー西側の側面は高さ5ー10mの石垣で構築された城壁となり、三面にはそれぞれ北(「菅谷口」)ー北西(「御子守口」)ー南西麓(「塩谷口」)からの城道が繋がる虎口が設けられていました。虎口はすべて桝形構造で普請され、このうち「御子守口」大手「塩谷口」搦手と想定されます。御子守道は北・南側の丘陵に挟まれ「山中御殿平」に繋がっていますが、この北側の丘陵上には千畳敷太鼓壇奥書院花の壇が、南側の丘陵には能楽成大東成といった郭群が構築され、「山中御殿平」を守備する防御ラインとなっていました。また麓の「菅谷口」「御子守口」「塩谷口」に家臣の屋敷地が構えられ有事の際の砦として利用され、城下は現在の飯梨川の河床になっています。

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では平安末期(長寛年間 1163−65年)頃、平景清が富田に居館を構えたのが月山富田城の初源とも。その後、文治元(1185)年 近江源氏 佐々木高綱の弟 義清が出雲・隠岐国の守護職に任じられて富田に居館を構え、四代の左衛門尉頼泰の代に塩冶(えんや)に拠点を移すまで佐々木氏が在城し、その後 富田城には守護代が置かれたと伝えられます。南北朝期の出雲国守護職は塩冶ー京極ー山名と入れ変わり、山名の頃に守護代として佐々木氏の庶流 富田秀貞が富田に居住したと伝えられます。(富田城はこの頃、秀貞に築かれたとも) 明徳2(正中8 1391)年の「明徳の乱」後、京極兵衛尉高詮が出雲国守護職に任じられると、京極氏の被官 尼子上野介持久が守護代として出雲に下向し富田城に拠したとされます。そして持久のあとを継いだ刑部少輔清定は「応仁の乱」(応仁元 1467年〜)を境に京極の勢力が急速に衰退すると、私領の拡大や美保関湊を掌握するなど経済基盤を万全なものとし、京極からの独立を画策しました。しかし計画は失敗に終わり、文明16(1484)年 清定は守護代を罷免され嫡子の経久とともに富田城から追放されました。その後、経久は富田城奪還を目論み、文明18(1486)年の元旦 守護代 塩冶掃部介を誅殺して富田城乗っ取りに成功しました。そして出雲を平定した経久は隣国の国人衆を支配下におさめ、次第に山陰・山陽に勢力を拡大していきます。天文6(1537)年、経久は嫡孫の修理大夫晴久に家督を譲り隠居します。同9(1540)年、晴久は大内方に寝返った安芸毛利氏の郡山城を攻撃(「郡山籠城戦」)しましやが、大内軍の援軍が到着すると尼子下野守久幸(経久の弟)が討死するなど、尼子軍は大敗を喫して晴久は富田城に敗走しました。同10(1541)年、経久が死去すると、翌年 大内義隆は防長・安芸・石見の国人衆を率いて出雲に侵攻し月山富田城を包囲、攻防戦が開始されました。(「第一次月山富田城の戦」) しかし富田城は大内軍の執拗な攻撃にも落城せず、逆に長期戦の疲弊から大内方の三刀屋城主 三刀屋弾正久扶、三沢城主 三沢左京亮為清、小倉山城主 吉川治部少輔興経等が尼子方に寝返ります。(寝返った理由はほかにも諸説ありますが) このため大内勢は劣勢となり出雲からの撤退を余儀なくされました。大内勢に勝利した晴久は尼子の勢力の回復に尽力し、同21(1552)年には山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護職に任ぜられ、大内との対立をさらに深めます。弘治元(1555)年、郡山城主 毛利元就が「厳島」で陶晴賢を敗り自害に追い込むと、晴久は石見に侵入して石見銀山を支配下に置くなど積極的に石見の経営をおこないました。しかし同3(1557)年、毛利元就が大内義長を自害に追い込み大内領を支配下におさめると、元就は石見東部に侵攻して尼子との武力衝突を起こすようになります。そのさなかの永禄3(1560)年、尼子晴久は月山富田城で死去し、嫡子の右衛門督義久が尼子の家督を継ぎました。そして晴久死去後、尼子が石見東部への軍事援助を手控えるようになると、石見・出雲の国人衆は続々と毛利方に寝返り、尼子の求心力は急速に衰退します。同5(1562)年、尼子の衰退を好機ととらえた毛利元就は月山富田城攻め(「第二次月山富田城の戦」)を決意し出雲に侵攻します。出雲に侵攻した毛利勢は月山富田城の兵糧口 白鹿城を陥落させると、富田城を包囲して籠城戦に持ち込みました。そしてこの間、尼子方では離脱者が続出し、永禄9(1566)年 経久の代からの重臣 宇山飛騨守久兼が義久に謀殺されると富田城内は混乱し、義久は毛利に降伏して月山富田城は開城されました。そして毛利の属城となった月山富田城には天野紀伊守隆重ー毛利刑部大輔元秋(毛利元就の五男)ー毛利兵部大輔元康(毛利元就の八男)ー吉川駿河守元春ー吉川民部少輔広家が順次 城主として居住しています。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、出雲に入封した堀尾帯刀吉晴は当初、月山富田城を拠点としましたが、慶長16(1611)年 新たに松江城を築いて移り住み、この際 月山富田城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
月山富田城 山中御殿から月山要害を望む
メモ
尼子本城
形態
山城
別名
月山城 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・復元石垣・建物礎石・井戸祉・水の手・堀
場所
場所(月山要害)はココです
駐車場
山中御殿平脇に路上駐車可能 OR 北麓の「道の駅」駐車場
訪城日
平成18(2006)年3月12日
月山富田城は飯梨川東岸の月山を中心に北西方向に延びた丘陵全体を城域とした、巨大な多郭構造の山城です。(写真左上・右上) でっ、城へは北麓の菅谷口(写真左)、北西麓の御子守口(写真左下)、南西麓の塩谷口(写真右下)から導線が「山中御殿平」まで繋がり、このうち御子守口からのルートが大手筋とされます。なお菅谷口にある城安寺は正和年間(1312−16年)創建の臨済宗南禅寺派の古刹で、近世広瀬藩松平氏の菩提寺です。
御子守口からの大手筋は北西・南西方向に延びた丘陵に挟まれた谷地に設けられ、このうち北側の丘陵上に千畳成ー太鼓壇ー奥書院平が、南側の丘陵には能楽成ー大東成が段々に敷設されています。千畳成は尼子時代の馬揃場と伝わり、規模は東西80m×南北60mほど。(写真左上) 太鼓壇は陣触の太鼓櫓が置かれていたと推測され、戦国のスーパースター 山中鹿之助の像が建てられています。(写真右上) でっ、各郭は6−7mの段差で区画されています。(写真右)
花の壇(写真左下) 「山中御殿平」の北側稜線に繋がる郭。内部から掘立建物の柱穴が多数確認され、殿舎が復元されています。(写真右下)
ー 山 中 御 殿 平 ー
「山中御殿平」(写真左上・右上) 月山の北東側中腹(飯梨川から比高40m)に築かれた軍事・政治上の重要拠点、規模は東西130m×南北110mほど。東ー北ー西側の城壁に5ー10mの石垣が敷設され、東・西側の縁部に高さ2−2.5mの石積土塁が復元されています。(写真左下) また内部の建物祉は植栽で表現されています。内部は尼子ー毛利ー堀尾時代に数度にわたり改修されたと想定され、現在 見られる修復・復元されている遺構は堀尾時代のもので、全体的に中世城郭というより近世城郭の雰囲気があります。(場所はココです)
大手門祉(写真左上) 「山中御殿平」の表門。内部は発掘調査から高さ5m×幅15m四方の埋門形式の桝形構造だったことが確認されています。ちなみに管理人がはじめて月山富田城に来た頃(昭和50年代後半)、大手門の石垣は崩落しまくり状態だったのですが ・・・・・。
菅谷口(写真右上) 「山中御殿平」の東虎口。櫓台をともなった桝形虎口だったようです。
塩谷口(写真右) 「山中御殿平」の西虎口。内部は小規模な両袖桝形構造になっています。
雑用井戸
菅谷口門の脇にあります。「山中御殿平」内で水の手はここ1ヶ所だけだったようです。   
軍用井戸
大手門に隣接した巨大な天水溜の溜池です。規模は径3−4m×深さ3mほど。  
ー 月 山 要 害 ー
「月山要害」は標高183m(飯梨川から比高150m)の要害山山頂に築かれた月山富田城「詰城」です。規模は東西320m×南北20−30mほど。郭は四周を急峻な断崖になった細長い稜線尾根を加工して、東側から主郭ー二の郭ー三の郭を連郭式に構築しています。このうち主郭・二の郭間は堀切で、二の郭・三の郭間は高さ1−1.5mの段差で区画されています。また二の郭・三の郭の側面は石垣で補強されていたようです。
「山中御殿平」から「月山要害」までは「七曲り」と呼ばれるつずらおれの導線で繋がっています。登口には石積で構築された石段が築かれ(写真左上)、登り始めると左右には階段状の小規模な段郭が確認できます。(写真右上) また中腹部に山吹井戸と呼ばれる湧水井戸があり(写真左)、「七曲り」を登り切ると「袖ヶ平」と呼ばれる袖郭に辿り着きます。でっ、前面に三の郭の石垣が目に飛び込んできます。(写真左下・右下)
三の郭(写真左上)
規模は東西80m×南北20mほど。二の郭とは高さ1−1.5mの段で区画されています。
二の郭(写真右上・右)
規模は東西50m×南北30mほど、周囲は石垣で構築されています。南東縁に小規模な桝形虎口が設けられ主郭に繋がっています。(写真左下) でっ、主郭・二の郭間は幅15m×深さ5−6mの堀で断ち切られ、二の郭側の切岸にのみ石垣が施されています。(写真右下)
主郭(写真左上)
規模は東西140m×南北20−30mほど、内部は段差によりいくつかの平場に区画されていたようです。北側縁部に土塁らしき高みがあり、「山中鹿之助記念碑」が建てられています。(写真右上) また東端に月山築城以前から存在していた勝日高森神社が祀られています。(写真左) でっ、「月山要害」からは飯梨川沿いの沖積平野(能義平野)や中海方向が眺望できます。(写真左下)
尼子清定・経久父子の墓所は広瀬町内の洞光寺にあります。(写真右上)
経久の墓碑 (左) 清定の墓碑 (右)
「興国院殿月叟省心大居士」 「洞光寺殿華山常金大居士」
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