新 宮 党 屋 敷
島根県安来市(旧広瀬町)広瀬町富田新宮
立地・構造
 新宮党屋敷月山富田城の北東2kmの丘陵部に築かれた単郭の居館で、飯梨川に流れ込む小河川沿いの丘陵縁部を大規模に切り崩して造成した平場を屋敷地として利用しています。規模は東西100m×南北70mほど、新宮谷側は高さ4−5mの切岸で仕切られています。

 築城時期は不明。館主の尼子刑部少輔国久は明応元(1492)年、月山富田城主 尼子経久の次男として生まれました。国久は大永4(1524)年の「大永の五月崩れ」で伯耆の諸城を攻略したのを皮切りに、以後 尼子軍の中枢「新宮党」を率いて山陰・山陽を席捲し、尼子の勢力拡大に貢献しました。そして天文10(1541)年、尼子経久が死去し 甥の修理大夫晴久が尼子の家督を継承すると、国久が晴久の後見役をつとめました。しかしその後、両者は意見を違え次第に不和となり、このため天文23(1554)年 「新宮党」は晴久の攻撃を受けて一族もろとも謀殺され、「新宮党」は壊滅しました。国久が謀殺された理由としては、尼子氏内部での権力争い説、毛利元就の謀略説等があるようです。
歴史・沿革
新宮党屋敷 尼子国久一族の墓碑と大夫神社
メモ
尼子経久の次男 尼子(新宮)国久の屋敷
形態
崖縁城
別名
太夫成 
遺構
郭(平場)
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成18(2006)年3月12日
新宮党屋敷は飯梨川にそそぐ小河川に沿った新宮谷(写真左上)の北岸斜面を切り開いて構築された単郭の居館です。(写真右上) 縁部(新宮谷側)は高さ4−5mの切岸で処理されています。(写真左)
内部の規模は東西100m×南北70mほど、ほぼ平坦になっていて(写真左下)、現在は尼子晴久に族滅させられた尼子国久、国久の嫡子 式部少輔誠久、豊久、敬久の墓碑(写真右下)と太夫神社の祠が祀られています。
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