本多上野介正純は徳川家康の重臣 本多佐渡守正信の嫡男として生を受け、家康・秀忠に仕えて秀忠時代に老中をつとめました。元和5(1619)年、正純は下野国小山藩五万三千石から宇都宮十五万石へ加増転封されましたが、将軍
秀忠周囲の側近衆と対立するようになり、同8(1622)年 宇都宮城の無断修理、宇都宮城釣り天井事件、鉄砲の無断購入等の猜疑により出羽国 本荘五万石への転封を命じられます。しかし正純がこれを拒否したため、秀忠は激怒し、本多家は改易となり正純、正勝父子は久保田佐竹藩に預けられました。そして正純は横手に幽閉され、寛永十四年三月十日 配所で死去しました。享年 七十三。また嫡子の出羽守正勝は正純よりはやく、寛永七年五月十日 配所で死去しました。享年 三十五。(場所はココです)
<横手時代の正純の句> |
「日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく」 |
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