金 沢 城
秋田県横手市(旧横手市)金沢中野字小井戸ヶ沢、金沢字安本館
立地・構造
 金沢城は横手盆地の北東部、厨川左岸の奥羽山脈から北西方向に張り出した稜線突端(標高170m 比高90m)に築かれた山城です。規模は東西400m×南北450mほど、東側稜線を多重堀で断ち切って城域を独立させています。城縄張りは頂部稜線を加工して主郭・二の郭を配し、二の郭の北東側に北郭を、二の郭の南西側稜線に西郭(安本館)を配し二の郭を中心に十字方向に郭が展開されています。規模は主郭が東西50m×南北80m、二の郭が東西70m×南北40m、北郭が東西40m×南北60m、西郭(西本館)が東西25−30m×南北180mほど、各郭間は堀で切られ、また主郭・二の郭間の鞍部から焼米が発掘され兵糧庫祉が推測されています。大手筋は北西麓、西麓からのル 金沢城 現地説明板の図
現地説明板の図
ートが想定され、搦手が想定される南東側稜線は多重堀切で遮断されています。同地は横手盆地の北部、仙北平野の南部を眺望できる高所に位置します。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説に「後三年の役」(1083−87年)の際、源義家、藤原(清原)清衡に攻め滅ぼされた出羽の俘囚長 清原氏の居館 金沢柵に比定されています。また金沢城の初見は長禄年間(1457−60年)、南部氏(根城南部か?)が平鹿、仙北を勢力下に置いた際、南部氏の家臣 金沢(南部)右京亮則信(南部守行の六子とも)が金沢城に拠したことを初見とします。しかし文明2(1470)年、沼館城主 小野寺中務大夫泰道が則信を敗り南部勢力を仙北から駆逐すると、以後 金沢城は小野寺氏の支配下に置かれたと思われます。天文21(1552)年、横手平城主 大和田佐渡守光盛と金沢八幡別当 金乗坊は小野寺氏に謀反を起こし、湯沢城を攻め小野寺左衛門佐雅道(稙道)を自害に追い込む事件が勃発します。(「平城の乱」) しかし弘治元(1555)年、雅道の嫡子 遠江守輝道(景道)は庄内衆、由利衆の支援を受けて佐渡守光盛、金乗坊を攻め、この際 金沢城は落城したと伝えられます。そして金沢城に雅道の弟 権大夫道秀が据えられましたが、次第に道秀は六郷城主 六郷氏に近侍し、六郷兵庫頭政乗の弟 権太郎道長を養嗣子とします。天正18(1590)年の「太閤検地」後、金沢氏は二千四百八十九石の所領を豊臣政権から安堵され 独立した国衆と認知されましたが、慶長5(1600)年の「関ヶ原」後 小太郎秀定は六郷氏に従って常陸に転封しました。そして金沢城に秋田に入封した佐竹義宣の家老 根本里行が入城しましたが、ほどなく廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
金沢城 南東側尾根の多重堀
メモ
古代 ー 清原氏の居館 金沢の柵か?
中世 ー 「六郷衆」 金沢氏の館城
形態
山城
別名
金沢の柵(比定地)
遺構
郭(平場)・虎口・土塁・堀・水の手
場所
場所はココです
駐車場
主郭下に駐車スペースあり
訪城日
平成16(2004)年11月4日 平成19(2007)年4月19日 令和3(2021)年5月7日
金沢城は金沢地区背後(南東方)の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー西側かの遠景) でっ、現在 金沢公園となっている城山へは西麓から車道が敷設され車で楽にアプローチできます。(写真右上ー登り口) でっ、西側稜線に物見と思われる平場(写真左ー御野立所祉)、塹壕(堀切)が見られます。(写真左下) なお御野立所祉は明治天皇の在皇所で横手盆地、仙北平野が一望にできます。(写真左下)
金沢城 二の郭
二の郭(写真左上) 規模は東西70m×南北40mほど、現在 金沢八幡の社地になっています。また西側に藤原清衡が植えたと伝えられる兜杉があり(写真右上)、さらに西側下に郭が連続しています。(写真右) でっ、周囲は高さは7−8mの急峻な切岸に削崖されています。(写真左下ー北側の切岸 写真右下ー東側の切岸)
金沢八幡は「後三年の役」後、源義家が藤原清衡に命じて石清水八幡宮を勧進して創建した神社。
金沢城 二の郭の北切岸 金沢城 二の郭の東切岸
 
北郭(写真左上) 二の郭北側下に位置し、規模は東西40m×南北60mほど。縁部に高さ0.5mの分厚い土塁が築かれています。(写真右上)
兵糧庫祉(写真左) 主郭・二の郭間の鞍部に位置し、二の郭とは堀で区画されています。でっ、内部から焼米が発掘されたことから兵糧庫があったと推定されています。主郭との段差は3−4mほど。(写真左下)
主郭(写真右下) 規模は東西70m×南北60mほど、南東端に土塁が部分的に残存しています。
金沢城 主郭
金沢城 主郭の南東土塁 金沢城 主郭の東堀切
(写真左上) 主郭の南東土塁
金沢城は東側から延びた稜線の先端に築かれています。このため主尾根の南東側稜線は五重堀で切られ(写真右上・右)、また東側稜線も4−5m切り落とした堀切と二重堀で遮断され、金沢城の独立性を担保しています。(写真左下・右下) でっ、堀切自体はどれも小規模なものですが、痩尾根を完全に断ち切っています。
金沢城 主郭 東側稜線の多重堀
金沢城 主郭 南東側稜線の堀切 金沢城 主郭 南東側稜線の堀切
金沢城 西郭 金沢城 西郭の土塁
金沢城 西郭の堀
西郭(写真左上ー北側 写真左下ー南側) 規模は東西25−30m×南北180mほど、中間部分に幅10m×深さ2−3mの堀が穿たれています。(写真右上ー堀に面した土塁・下幅4−5m×高さ1.5m 写真左ー堀) でっ、郭の東・西側は急斜面の断崖になっていて、南東側稜線は段郭群に加工されています。(写真右下)
ー 動画 金沢城を歩く ー
秋田の中世を歩く