横 手 城
秋田県横手市城山町、城西町、根岸町、睦成字水上沢、田の沢
立地・構造
 横手城は横手盆地の中央東縁、奥羽山脈から西方向に張り出した丘陵突端(標高121m 比高60m)に築かれた平山城です。城の規模は東西250m×南北450mほど、城山は北東から南方向に張り出した独立丘陵状になっていて、東ー南側に沢が深く切り込み、西側は急傾斜の断崖になっています。城縄張りは高低差の小さい頂部を加工したもので、大きくは本丸ー二の丸とこれに付随した郭群からなります。規模は本丸が東西40m×南北70m、二の丸が東西70m×南北100mほど。大手筋は中世 南麓からのルートが、近世 南西麓からのルートが想定されます。現在、城址の大部分は公園整備され、遺構の大部分は改変されているものと思われます。
横手城 概念図
 築城時期・築城主体ともに不明。『和賀小野寺系図』では沼館城主 小野寺忠道の子 道有が正安2(1300)年に築いたとされ、また『応仁武鑑』では応仁元(1467)年頃、稲庭城主 小野寺氏の家老 横手三郎兵衛道前が居住したとされます。天文21(1552)年、横手佐渡守(大和田光盛)は金沢金乗坊と謀り、湯沢で主家の小野寺左衛門佐稙道を自害に追い込み、小野寺家の実権を握ります。(「平城の乱」 天文15 1546年とも) しかし弘治元(1555)年、大和田光盛と金沢金乗坊は庄内衆・由利衆の支援を受けた稙道の嫡子 輝道に攻め滅ぼされました。その後、輝道は雄勝・平鹿・仙北南部に勢力を拡大し、天正年間(1573−92年)初期頃 沼館城から横手城に拠点を移したとされます。(松岡氏伝『小野寺系図』) 同18(1590)年、輝道の嫡子 遠江守義道は豊臣秀吉の小田原の役」に参陣して所領を安堵されましたが、「太閤検地」後 雄勝郡を最上領に認定され所領を3万石に減らされました。このため義道は雄勝郡の領有を主張して最上氏との「境目」で両勢力の軍事緊張が続きました。そして慶長5(1600)年、徳川家康の上杉討伐が勃発すると義道は上杉と結んで最上氏と対峙しましたが、「関ヶ原」が東軍の勝利で終結すると小野寺氏は孤立し、最上、安東、戸沢氏、由利十二頭連合軍の攻撃を受けて降伏しました。戦後、小野寺氏は所領没収・改易となり、義道は弟の大森城主 孫五郎康道(「大森殿」)とともに石見国津和野に配流され、横手城に最上氏の家臣 鮭延典膳秀綱が入城しました。しかし同7(1602)年、佐竹義宣が秋田に入封すると横手城に城代として茂木氏が据えられ、寛文12(1672)年 戸村義連が入城して戸村氏が「明治維新」まで在城しました。なお慶応4(1868)年の「戊辰戦争」の際、秋田藩は新政府軍(薩長軍)に加担したため、横手城「奥羽列藩同盟」(仙台藩、庄内藩等)の攻撃を受けて陥落しています。
歴史・沿革
 「山と川のある町」 横手市の中心部にある横手公園が中世 雄勝、平鹿郡を支配した小野寺氏最後の拠点 横手城です。横手城は近世以降 佐竹氏により改修され、中世城郭の「匂い」は ほぼ消滅、また横手公園として整備される過程で完全に城郭遺構は消失しています。しかし城跡から一望できる横手盆地の景観だけは往時と変わらないものなのでしょう。小野寺氏が横手に本城を移したのは戦国末期の輝道の代(天正年間)とされます。小野寺氏はもともと鎌倉期、雄勝郡の地頭職として入部した下野小野寺氏の庶流とされ、南北朝ー室町期 平鹿郡に進出しました。室町中期、仙北郡は南部氏の勢力下に置かれ、仙北郡へ北進する小野寺氏と対峙しましたが、結果的に応仁2(1468)年 小野寺氏が勝利し 南部勢力を退却させて平鹿郡の支配権を確立しました。そしてこの頃、小野寺氏が本城としたのが沼館城と推測され、小野寺氏は除々に横手以北の村落領主をその支配下に組み込んでいったと思われます。そうこうする中で事件が勃発します。 天文21(1552)年、横手平城主 横手佐渡守(大和田光盛)と金沢八幡別当 金乗坊が小野寺稙道に謀反を起こし、湯沢城で稙道を自害に追い込みました。このクーデターの原因は稙道の(まつりごと)を無視した自堕落な生活と独裁的な恐怖政治に起因したとされますが、クーデターの張本人である横手佐渡守、金沢金乗坊は本貫地を苗字として称していることから、小野寺氏が北進する過程で臣従を強いられた村落領主と推測され、小野寺氏から見たら外様だったのでしょう。そしてこの外様領主の背後には小野寺氏の北進に反抗する勢力があったとも推測され、クーデターの背景には小野寺 対 反小野寺(村落領主連合)といった構図の政治力学が働いたものと思われます。しかしクーデター政権は長続きせず、弘治元(1555)年 稙道の嫡子 輝道は荘内、由利衆の支援を受けて横手佐渡守、金沢金乗坊を攻め滅ぼしました。横手城に拠点を移したのはこの輝道の代とされ、横手・金沢を鎮圧したことで仙北郡北部への領土拡張を念頭に置いたものと思われます。この輝道の時代が小野寺氏の全盛期とされ、領内各所に一族、家臣団を配置し、南は有屋峠を越えて金山、真室までその支配下としていました。この輝道が死去したのは天正10(1582)年頃と推測されます。(具体的な享年を記した史料はないが、この前後で輝道の動静は不明になる) そして輝道のあとを継いだ遠江守義道の代に小野寺氏の勢力は除々に衰退に向かいます。 輝道死去前後の小野寺氏の動静を時系列にすると、天正9(1581)年 真室城主 鮭延典膳秀綱が小野寺氏の支配下から離脱、同10(1582)年 大沢山合戦(本当にあったのか?)で由利十二頭軍に敗北、同14(1586)年 「有屋峠の戦」で最上義光と武力衝突(引き分けか?)、同15(1587)年 「阿気野の戦」角館城主 戸沢盛安と武力衝突、その他にも六郷城主 六郷政乗と対峙するなど、小野寺氏は四面楚歌の状態だったと推測されます。そして追い討ちをかけるように天正18(1590)年の「奥州仕置」で義道は平鹿郡の領有を認められたものの、雄勝郡は最上領とされました。しかし義道が雄勝郡の領有を認めないため、最上義光は実質支配するための方策を練り、小野寺氏の内部から崩壊させる策を採り、文禄4(1595)年 小野寺譜代の重臣 八柏城主 八柏大和守道為を謀略により義道に殺害させました。同年、最上義光は雄勝侵攻を本格化させ、楯岡城主 楯岡豊前守満茂を大将に湯沢城岩崎城を攻略、除々に小野寺領を浸食していきました。慶長2(1597)年、小野寺義道は最上氏に占拠された湯沢城を奪回するため湯沢に侵攻しましたが、楯岡満茂の守備は堅く 「大島原の戦」と呼ばれる一戦に敗北を喫し、逆に馬鞍城を攻め落とされる等、最上氏は統治を絶対的なものとし、両勢の小競り合いは「関ヶ原」まで繰り返すこととなります。慶長5(1600)年、徳川家康の上杉攻めで小野寺義道は家康に加担するため出陣したものの、家康から出羽衆は最上義光の下知に従うように命じられ、このため横手に一時 帰陣しました。同年9月、上杉景勝の執政 直江兼続は最上領に侵攻して長谷堂城を囲み、最上氏を圧迫しました。この報を受けた小野寺義道は動揺し、最上氏攻撃に転じました。しかし「関ヶ原」が東軍の勝利で終結すると上杉軍は最上領から退却し、小野寺氏は孤立無援となります。同年10月、最上勢は安東実季、六郷政乗、戸沢政盛等の支援を受けて小野寺領に侵攻し大森城を囲みます。しかし大森城の守りは堅く攻略できず、家康の停戦命令により双方和睦して最上勢は山形に退却しました。そして義道は最上氏との武力衝突は徳川家康に敵対したものとの意識はなく、所領の減知はあっても家名は存続すると考えていたようですが、結果は領地没収の上、石見国津和野へ配流となり 横手小野寺氏は没落しました。小野寺氏が去った後の横手城は一時的に最上氏が管理しましたが、慶長7(1602)年 佐竹義宣が秋田に入封すると茂木氏が城代として入城し、この際 横手城は近世城郭に改修されたと推測されます。しかし石垣等は使用されず、本城 久保田城と同様 「土の城」だったようです。その後は須田氏、戸村氏が城代として入城し、幕末まで存続しました。佐竹氏の城代時代に城下町の整備がなされ、城の南側 横手川右岸の羽黒町周辺に家臣屋敷が、横手川左岸に商人、町屋敷が配置されました。現在の横手城は公園として整備され、春は桜、秋は菊人形等の観光地化され、小野寺氏の影はまったく確認できません。
横手城 二の丸の模擬天守
メモ
中世 ー 小野寺氏の本城
近世 ー 秋田佐竹藩の支城
形態
平山城
別名
朝倉城 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀(濠)・模擬天守
場所
場所はココです
駐車場
横手公園駐車場
訪城日
平成18(2006)年8月10日 平成19(2007)年4月19日 平成25(2013)年6月26日
横手城は横手市街地の北東部、横手川に面した小高い丘に築かれた平山城で、現在 横手公園として整備されています。(写真左上ー西側からの遠景) でっ、城山の東側に牛沼と呼ばれる池がありますが(写真右上)、これは沢を堀留してつくられた人造池で、本来 城山の南⇒東側に沢が深く切り込んでいたのでしょう。そして城山の南麓に往時の濠の一部が残存し(写真左)、その脇に小野寺時代 大手門が構えられていたようです。(写真左下) でっ、導線は南側斜面につずら折れに設けられていますが、往時の導線かは不明。(写真右下)
でっ、佐竹氏時代に付け替えられた大手は城山の南西麓に開き(写真左上)、ここからつずらおれの城道が設けられ(写真右上)、大手門に繋がっています。(写真右ー大手門祉)
本丸の東ー南ー西側には5−6mの段差で画された帯郭が巻かれ(写真左下ー南側の帯郭 写真右下ー東側の帯郭)、本丸へは北西側から導線が設けられています。ただし公園整備がなされすぎていて、どこまでが往時の遺構なのかは不明。
(写真左上) 本丸東側の帯郭
(写真右上) 本丸の北西虎口
本丸(写真左) 規模は東西40m×南北70mほど、現在 秋田神社が祀られています。虎口は前記した北西虎口のほか、北東・南側にも見られますが ・・・・・、往時のものから不明。
武者溜(写真左下) 本丸・二の丸間の平場で、規模は50m四方ほど、南東側の本丸との間に虎口と思われる切り込みが見られます。(写真右下)
二の丸(写真左上) 近世の佐竹時代、城代 戸村氏の居館があったとされる平場で、規模は東西70m×南北100mほど。現在、内部に模擬天守が(写真右上)、中央に「小野寺氏彰徳碑」が建てられています。(写真右) 東側下に腰郭が1段 設けられ(写真左下)、北側は堀切で仕切られています。(写真右下) でっ、堀切の北側にも城郭遺構があったと思われますが、民家の敷地等になっているため ・・・・・、よくわかりません。
(写真左上) 二の丸北側の郭
(写真右上) 搦手門祉、二の丸の北西側下にあったようです。現在、車道になっている部分は往時の城道をトレースしたものか?。
(写真左) 武者溜から横手市街地を望む。横手盆地がほぼ一望にできます。
平城址、小野寺稙道を謀反で斃した横手佐渡(大和田光盛)の居館と伝えられます。がっ、地名としての「平城」は残っているものの、城郭遺構はすべて消滅しています。  「小野寺中興の祖」 小野寺中務大夫泰道の供養碑、市内正平寺にあります。
秋田の中世を歩く