弓 木 城
京都府与謝郡与謝野町岩滝・弓木
立地・構造
 弓木城は阿蘇海に面した野田川左岸(往時は阿蘇海に面した)の舌状台地先端(比高40m)に築かれた平山城です。城の規模は東西500m×南北350mほど、大きくは主郭・二の郭からなる本城域と、本城域から谷を挟んだ北側に位置する北出丸本城域の西側に位置する西郭群からなるようです。(西郭群は小学校建設等により消滅) 本城域は西側に設けられた主郭を中心に東ー北ー西側下に腰郭を巻き、
北東側に堀を挟んで二の郭を敷設したシンプルな構造です。規模は主郭が東西90m×南北20m、二の郭が東西50m×南北30mほど。基本的には高い切岸で防御ラインを構築し、端部は小郭で処理されています。北出丸は東西120m×南北10−20mほど、内部は数段の段郭に加工されているようです。基本的には本城域の北側を守備・監視する防塁、本城域との谷間に設けられた大手筋を守備する性格をもっていたと推測されます。また西郭群は現在、改変され遺構等は見られませんが、本城域の背後を監視していたものと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。『丹後御壇家帳』天文七年の条いみの木、此の里地下は表へ入こみ也、大なる城主也、稲富どの」と記され、城主が稲富氏だったことが知られ、また『寛永諸家系図伝』には「某、はじめは山田氏なり。丹後国忌木の城主たりしょり巳来あらためて福富氏となる」と記され、在地から発生した勢力と推測される山田氏が稲富保弓木城に拠点を移して稲富氏を称したと伝えられます。その後、稲富氏は丹後国守護職 一色氏に仕えることになりましたが、一色氏は「応仁の乱」(応仁元 1467年)後、若狭国守護職 武田氏(後瀬山城主)と抗争を繰り広げ、除々に衰退していきました。永禄元(1558)年、守護職を継いだ一色左京大夫義道は同11(1568)年、上洛を果たした織田信長に接近し、たびたび織田軍に参陣するなど、丹後一国の所領を安堵されました。しかし信長が追放した将軍 義昭を匿ったことが発覚、このため同6(1578)年 信長の命を受けた細川藤孝が丹後に侵攻し、義道の籠もる建部山城を攻略しました。そして藤孝は一色家中を内応させ、翌年 中山城で義道を自害に追い込みます。義道の死後、嫡男の左京権大夫義定(義俊)は一色氏残党を集めて弓木城に籠城し、細川軍に徹底抗戦します。このため藤孝は明智光秀を仲介にして、藤孝の娘を義定に嫁がせる条件で一色氏と和議を結びました。そして義定は信長から二万石の所領を安堵され、同9(1581)年の「京都御馬揃」に織田氏家臣として参加しています。同10(1582)年9月、虎視眈々と一色氏の壊滅を画策する藤孝は義定を田辺城に誘い出して誅殺しました。この報を聞いた義道の弟 吉原越前守義清(義定の叔父)は弓木城に入り 一色家の家督を継ぎましたが、細川勢の攻撃を受けて弓木城は陥落し 義清は討死したとされます。
歴史・沿革
弓木城 主郭・副郭間の空堀
メモ
丹後国守護職 一色氏の最後の拠点
形態
平山城
別名
 稲富城・一色城
遺構
郭(平場)・櫓台・土塁・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
城山公園駐車場
訪城日
平成19(2007)年3月30日
弓木城は阿蘇海に面した与謝野市街地背後の丘陵上に築かれた平山城で、現在は城山公園になっています。(写真左上) 城へはいくつか散策ルートが設けられていますが、管理人は東麓からアプローチしました。(写真右上) でっ、辿り着くのが主郭の東ー北ー西側をカバーした帯状の郭で、規模は幅15−20mほど。(写真左・左下) 西端に櫓台と思われる土壇があり、現在は稲荷社が祀られています。(写真右下) また南西縁に高さ1.5−2mの土塁痕が見られます。
(写真左上) 土塁痕 
でっ、帯郭は北東側に構築された二の郭主郭間の堀にもなっています。(写真右上) 堀幅は20mほど、二の郭側は高さ2−3mの段差で区画されています。二の郭の規模は東西50m×南北30mほど(写真右・左下)、ケッコウキッチリ削平され、中央部に櫓台らしき高さ1.5mの土壇が築かれています。(写真右下)
二の郭の北側斜面は急傾斜の断崖になっていて、雑木が伐採されているためケッコウ圧迫感があります。でっ、北東側稜線は教科書通りに段郭群で処理されています。(写真右上) 
北出丸(写真左) 本城域北側の小丘陵に築かれた出丸。規模は東西120m×南北10−20mほど、内部は数段の段郭に加工されているようです。(写真左下ー未確認) でっ、本城域との間の谷地が大手筋と想定され谷戸部分に大手口が設けられていたのでしょう。(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は東西90m×南北20mほど、西端は高さ1.5m×20m四方の土壇になっていて、櫓台が想定されます。周囲は高さ7−8mの切岸で処理され、南東側に虎口が設けられています。(写真右上)