根 代 館
秋田県由利本荘市(旧由利町)由利町川西
立地・構造
 根代館は子吉川中流域の左岸、西から東方向に張り出した稜線上(比高90m)に築かれた山城です。城の規模は推定 東西250m×南北80mほど、城縄張りは頂部稜線を加工した主郭部(
根代館 概念図
郭ー二の郭ー三の郭)を中心に、東側稜線を低い段で階段状に加工した階郭構造で構築され、特に三の郭東四郭間を高さ7−8mの切岸で仕切り、主郭部の優位性を担保しています。規模は主郭が東西30−35m×南北10−30m、二の郭が東西30m×南北25m、三の郭が30m四方ほど、低い段差で画されているため纏まった平場になっています。また主郭の西端に櫓台と思われる土壇が築かれ、背後(西側)は痩尾根で繋がっています。大手筋は東麓からのルートが想定されますが不明。同地は子吉川沿いの沖積平野、また矢島方向からの街道筋を見下ろす高所に位置しており、物見砦として利用されていたと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説に鎌倉中期、鎌倉御家人 由利氏により築かれた「由利十二陣代」の一つとして一族の由利大毅維晟が拠したと伝わります。正和4(1315)年、鳥海氏と緊張関係にあった由利仲八郎政春は拠点を鳴瀬館から根代館に移しましたが、正中元(1324)年 根代館に鳥海氏に急襲されて陥落し、政春は自刃したと伝わります。その後、根代館は由利氏の裔 滝沢氏(「由利十二頭」)により取り立てられ、戦国末期まで使用されたと推測されます。
歴史・沿革
根代館 三の郭東側の切岸
メモ 鎌倉御家人 由利氏の「由利十二陣代」
「由利十二頭」 滝沢氏の「要害」
形態
山城
別名
 ・・・・・・
遺構
郭(平場)・虎口・櫓台
場所 場所はココです
駐車場
林道に路上駐車
訪城日
平成18(2006)年4月19日 令和4(2022)年4月28日
根代館は子吉川中流域の左岸、西から東側に張り出した丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー南東側からの遠景 写真右上ー北側からの遠景) 城へは奉行免で国道108号から林道へ入り、しばらく進むと進行方向左側に「木鶏庵祉登り口」の案内杭が設置され、ここからアプローチします。(写真左) でっ、登っていくと進行方向左側に段が確認でき(写真左下)、じきに木鶏庵祉に辿り着きます。(写真右下) 木鶏庵祉の規模は東西30m×南北10mほど。
(写真右) 木鶏庵碑、ちなみに木鶏庵が何なのかは不明。「由利町史」も確認しましたが、わかずじまいでした。
木鶏庵祉から主郭部までは2m前後の段で画された段郭群に加工され(写真左上・左下)、中盤に虎口らしきものも見られます。(写真右下)
(写真左上・右上) 東四郭、規模は東西20m×南北35−40mほど、北側斜面は幅2−5mの帯郭で潰されています。(写真左) でっ、三の郭間は高さ7−8mの切岸で画され、三の郭を含む主郭部の優位性を担保しています。(写真左下) でっ、三の郭へは北側の腰郭を経由して入ります。(写真右下) ちなみに腰郭の規模は幅10−15mほど、二の郭ー三の郭をカバーしています。
頂部稜線を加工した主郭部はシンプルな「一二三段」で構築され、規模は三の郭が30m四方(写真左上)、二の郭が東西30m×南北25m(写真右上)、主郭が東西30−35m×南北10−30mほど。(写真左下) 主郭・二の郭間の段差は3mほど。主郭の北東端、南東端が低く加工されており虎口だったのかも、また西端に7−8m四方×高さ2mの櫓台と思われる土壇が築かれています。(写真右下)
櫓台から西側稜線に堀切は設けられず、痩尾根で繋がっています。 根代館の南東麓に根代館で生害したと伝えられる由利政春の墓所があります。 
ー 動画 根代館を歩く ー
秋田の中世を歩く