滝 沢 城
秋田県由利本荘市(旧由利町)由利町前郷
立地・構造
 滝沢城は子吉川中流域の右岸、南面した河岸段丘先端(比高5−10m弱)に築かれた平城です。規模は推定 東西450m×南北250mほど、城縄張りは段丘先端に本丸を構築し、本丸の東ー北ー西側を二の丸で囲った梯郭構造で構築され、城の南側は子吉川に面した段丘崖で画されていたようです。本丸・二の丸の東ー北ー西側に外濠が穿たれ、本丸・二の丸間も内濠で区画されていました。本丸の規模は推定 東西120m×南北100mほど、二の丸と南東(南口)、北西(北口)、南西端(西口)に設けられていた虎口で繋がっていました。また二の丸の虎口は北東(東口)、北側中央(北口)、南西端(西口)に設けられ西口が大手口とされます。なお城下は城の北側に設けられていました。

 滝沢城は慶長8(1603

現地説明板の図
)年、滝沢兵部少輔政道により築かれたとされます。滝沢氏は由利郡を領した鎌倉御家人 由利氏の末裔と伝えられ、室町ー戦国期 子吉川中流域を領した「由利十二頭」の一家でした。しかし天正年間(1573−93年)の兵庫頭政家の代に滝沢氏は矢島根城館主 大井五郎満安との(いくさ)に敗れ、政家の嫡子 政忠が最上氏を頼って山形に逃れたとされます。そして慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、由利郡が最上領になると政忠の嫡子 政道は前郷に所領を宛がわれ滝沢城を築城しました。しかし政道は同14(1609)年、家臣に殺害され滝沢氏の家督は弟の兵庫頭政範が継ぎましたが、元和8(1622)年 「最上騒動」により最上氏が改易になると、滝沢氏も所領を失い、この際 滝沢城は廃城になったとされます。
歴史・沿革
滝沢城 二の丸西側の外濠祉
メモ
楯岡氏の与力 滝沢氏の近世平城
形態
近世平城
別名
 ・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀(濠)祉
場所
場所はココです
駐車場
二の丸の町営駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年12月26日 平成24(2012)年6月25日
滝沢城は子吉川の北岸、前郷地区南端の段丘先端に築かれた平城です。(写真左上ー南側からの遠景) 城は南側を段丘崖で画し、他の三方を濠で仕切った本丸・二の丸からなる梯郭構造です。でっ、二の丸を囲った外濠は西側のみ一部 残存し、北側は微かな段差で確認できるのみ。(写真右上ー西側の外濠祉 写真左ー北側の外濠祉) 濠の規模は幅20mほど。でっ、外部から二の丸へは東、西、東の三ヶ所に虎口が設けられ、このうち西門が大手と伝えられます。(写真左下ー西門祉 写真右下ー北門祉)
二の丸(写真左上) 本丸の東ー北ー西側を囲った平場で、西側は旧前郷小学校の校地、北側は住宅地、東側は滝沢舘団地に改変されています。(写真右上ー北側 写真右ー東側) このため遺構はほとんど残っていませんが、西縁にのみ土塁の痕跡が微かに確認できます。(写真左下) 規模は高さ50cmほど、南西側でクランクしています。(写真右下) ま〜〜〜、往時 土塁はもっと高く、郭を囲っていたのでしょう。
本丸(写真左上) 規模は推定 東西120m×南北100mほど、旧前郷小学校のグラウンドだったようです。でっ、西側の道路は本丸・二の丸を仕切った内濠祉と思われます。(写真右上)
慶祥寺(写真左) 由利仲八郎政春の姉 慶祥比丘尼が創建した庵を初源とし、滝沢政道が前郷に城下を建設した際 同地に移したと伝えられます。たぶん菩提寺として移したと思うのですが、特に滝沢氏に関するものはないようです。(写真左下ー寺の井戸祉)
前郷の舟着き場(写真右下) 明治以前の物資の運搬は子吉川に負うところが大きく、前郷の舟着き場も物資の集積で賑わったと伝えられます。
秋田の近世を歩く