山 田 合 戦 の 跡
秋田県由利本荘市(旧由利町)山本
 慶応4(1868)年、久保田佐竹藩、本荘六郷藩、矢島生駒藩、亀田岩城藩が「奥羽列藩同盟」から離脱して新政府方に加担すると、庄内酒井藩は鳥海山を越えて百宅口から矢島に侵攻し、7月28日 矢島陣屋を陥落させます。この報に驚いた久保田藩は久保田藩槍隊と津軽藩から応援に来ていた成田求馬隊を急遽、平沢から矢島口に回して対処しました。そして8月5日、久保田藩・津軽藩と庄内藩が武力衝突にいたりましたが、「山田合戦」は庄内藩の勝利で終結し、翌6日 本荘藩は本荘城を放棄して久保田へ遁走しました。「山田合戦」の戦死者は久保田藩六名、津軽藩八名、庄内藩は不明。遺体はこの地に埋葬され、津軽藩の成田求馬の遺体だけは庄内藩の本陣となっていた矢島の広祐寺へ運ばれました。その後、明治政府樹立後 遺体は各藩に引き取られ、秋田市八橋の全良寺に埋葬されました。(場所はココです)
「山田合戦の跡」碑
石碑は全部で四基、左から「山田合戦之跡」「成田求馬忠魂碑」「官軍矢島口戦死者の碑」「文學院教誉玉仙居士の墓碑」(新政府軍兵士の墓碑か?)
「山田合戦之跡」碑
文學院教誉玉仙居士の墓碑
官軍 矢嶋口戦死者の碑
成田求馬忠魂碑