羽 衣 石 城
鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石
立地・構造
 羽衣石城は東郷湖に注ぐ羽衣石川の上流部、右岸の丘陵ピーク(標高376m 比高290m)に築かれた山城で、北東側の稜線続きを二重堀で断ち切って城を独立させています。城縄張りは頂部ピークに構築された中枢郭(主郭・二の郭)と北西方向に延びた2本の稜線に展開され、規模は東
現地説明板の図
西400m×南北200mほど。中枢郭は東西に細長い平場で、西側が主郭、東側に1−1.5m降って二の郭が敷設されています。規模は主郭が東西70m×南北30m、二の郭が東西15m×南北20mほど。主郭・二の郭の周囲は10m前後の高い切岸で処理され、下部に幅5−10mの帯郭が巻かれています。帯郭は城内通路として利用されたと思われ、主郭へは南側中央に設けられた虎口からのみ繋がっています。大手筋は現在、登山道として利用されている2本のルートのどちらかと思われますが、どちらにも城郭遺構が残存しており不明。搦手は北東側の尾根筋と想定され、帯郭の東端は約10−15mほど切り落とした堀切で処理され、尾根筋にはさらにもう1本 堀が穿たれ二重堀になっています。北西側に延びた尾根筋には執拗に相当数の郭が築かれ、その一部の側面は石積で補強されています。(残存石積あり、崩落石塁多数) この中には規模の大きい平場が認められ、「根小屋」(城主居館、上屋敷?)が設けられていたと思われます。基本的には高い切岸と執拗な段郭群を防御主体とした古い形態の城館ですが、導線には石積・塁壁を使用したパーツを利用した施設が施されるなど見どころの多い特異な城館です。全体的に規模は大きく、また各所に水の手・井戸祉が残存しており、恒常的な居住空間を兼ねた館城だったと思われます。

 羽衣石城『羽衣石南条記』によると、出雲国守護職 塩冶高貞の子 高秀により貞治5(1366)年に築かれたと伝えられ、以後 高秀は南条伯耆守貞宗を称したとされます。塩冶高貞は正中3(1326)年、出雲国守護職となった鎌倉御家人 佐々木氏の庶流で、元弘元(1331)年の「元弘の変」で隠岐に流された後醍醐天皇が島を逃れて上洛した際 天皇を供奉し、鎌倉幕府討伐・「建武の新政」で功績をあげました。しかし南北朝期、室町幕府執事 高師直と対立したことで失脚し自害しました。そして高貞の子 高秀(南条貞宗)は旧臣に育てられ、その後 室町幕府に仕えて伯耆国に所領を宛がわれました。室町期、南条氏は伯耆国守護職 山名氏の支配下に組み込まれましたが、「応仁の乱」(応仁元 1467年)以降 山名の支配下から脱して独立した勢力として東伯耆を着々と侵食し勢力を拡大していきました。大永4(1524)年の豊後守宗勝の代に月山富田城主 尼子経久の「伯耆侵攻」が本格化すると、南条氏は伯耆の国衆とともに尼子勢と対峙しましたが、敗れて因幡国守護職 山名氏のもとに逃れました。(「大永の五月崩れ」) そして羽衣石城には経久の次男 刑部少輔国久(新宮党)が因幡に対する押さえとして置かれました。その後、宗勝は旧領回復の機会を伺い、天文9(1540)年 尼子晴久が「安芸郡山城攻め」で伯耆が手薄になった隙をつ衝いて伯耆に侵入します。しかし尼子国久・豊久父子が軍を引き返して羽衣石城に戻り、南条勢を降して勝利をおさめると、宗勝は再び因幡に逃れました。その後、尼子晴久の死去により尼子の勢力は急速に衰え、永禄5(1562)年 毛利元就が月山富田城を攻略して尼子を滅ぼすと、宗勝は毛利を頼り羽衣石城を回復しました。そして南条氏は毛利の家臣団に組み込まれ、尼子残党討伐にあたり東伯耆を守備しました。天正7(1579)年、織田信長の中国攻略が本格化すると、宗勝のあとを継いだ嫡子 右衛門尉元続が羽柴秀吉の誘いに応じたため、羽衣石城は吉川元春、尾高城主 杉原播磨守盛重の攻撃を受けて落城し、元続は因幡に遁走しました。しかし同年、元続は織田勢の支援を受けて羽衣石城を急襲して奪回に成功し、以後 毛利と対峙しました。同10(1582)年、羽衣石城はふたたび毛利の猛攻を受けて落城します。しかし同12(1584)年、羽柴・毛利の和睦が成立すると東伯耆三郡は南条氏の領有となりました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」で元続のあとを継いだ中務大輔元忠は西軍に加担したため、戦後 南条氏は改易となり羽衣石城は廃城となりました。
歴史・沿革
羽衣石城 大手筋に残る自然の塁壁
メモ
東伯耆の国人 南条氏の館城
形態
山城
別名
 ・・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・虎口・石積・井戸祉・堀
場所
場所はココです
駐車場
中腹に専用駐車場あり
訪城日
平成18(2006)年3月11日
羽衣石城は羽衣石川上流部の羽衣石地区背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上) 麓との比高差は290mほどありますが、比高差170mの中腹まで車で登ることができます。でっ、駐車場から主郭までは北側(写真右上)と南側(写真左)の2ルートが整備されており、管理人は北側から登り、南側から降りるルートをチョイスしました。登山道は比較的安定していますが、途中に石塁ゴロゴロの場所もあり(写真左下)、じきに番所祉に辿り着きます。(写真右下)
でっ、登山道を登り詰め辿り着くのが主郭から北西方向に延びた段郭群の上段になります。(写真左上) 段郭群は15−25m四方の平場で5−6mの段で区画された三段構造。この上段の上位郭は主郭・二の郭をカバーした帯郭に連続し幅5−10mほど、主郭・二の郭とは10m前後の切岸で区画されています。(写真右上ー北側の帯郭 写真右ー西側の帯郭 写真左下ー南側の帯郭) ちなみに主郭に繋がる虎口は南側中央に設けられ(写真右下)、グルッと廻らないと主郭に辿り着けない構造になっています。
 
二の郭(写真左上) 規模は東西15m×南北20mほど、主郭とは高さ1−1.5mの段で仕切られ、南側に井戸祉と思われる窪地があります。(写真左上)
主郭(写真左) 規模は東西70m×南北30mほど、内部に城址碑・模擬天守が建てられ、公園として整備されています。(写真左・左下) 主郭からは南条氏が支配した東郷湖周辺が眺望できるはずなのですが ・・・・・、訪城当日はガスがかかっていたため眺望はイマイチ。(写真右下)

主郭から北東方向に延びた稜線は二重堀で断ち切られています。1条目の堀は尾根筋を10−15m切り落とした豪快なもので自然地形を利用したものと思われます。(写真右) 2条目の堀は1条目の堀から約50m進んだ箇所に設けられたもので、幅7−8m×深さ2−3mほど。(写真上)
管理人は南側の登山道から下山しましたが、この登山道は主郭から西方向に延びた稜線に沿って敷設されており、もともと城道として利用されたものなのでしょう。途中、羽衣石城の語源となった「羽衣石」(写真左上)や段郭群の土留めをしたと思われる石積(写真左下)・崩落石塁(写真右下)が各所に見られます。もともと岩山だったため石塁の確保には不自由しなかったのでしょう。また段郭群のひとつに八幡神社が祀られています。(写真右上・左)
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